サンチャゴ・デ・キューバ海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/05 19:19 UTC 版)
サンチャゴ・デ・キューバ海戦(サンチャゴ・デ・キューバかいせん、Battle of Santiago de Cuba)は、アメリカ合衆国とスペイン帝国が戦った米西戦争中の1898年7月3日に起きた海戦。
- ^ 林義勝「スペイン・アメリカ・キューバ・フィリピン戦争--海外植民地領有のレトリックと統治の実態」『駿台史学』第112巻、明治大学史学地理学会、2001年3月、53-90頁、ISSN 05625955、NAID 120001438986。
- ^ a b c 田中宏巳 2004.
- ^ 別宮暖朗 『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦 : なぜ日本はロシアに勝利できたか』並木書房、2005年。ISBN 4890631844。 NCID BA72479529 。
- ^ アメリカにおける秋山真之《下巻》.
- 1 サンチャゴ・デ・キューバ海戦とは
- 2 サンチャゴ・デ・キューバ海戦の概要
- 3 セルベラ艦隊の回航
- 4 アメリカ艦隊の集結
- 5 海戦後
- 6 観戦武官
- 7 参考文献
サンチャゴ・デ・キューバ海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:16 UTC 版)
「パスクワル・セルベラ」の記事における「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の解説
陸戦の見通しは立たなかったが、この間に艦隊はキューバ総督の指揮系統に加えられ、本国およびキューバ総督からの出撃が命令された。セルベラは4隻の装甲巡洋艦と2隻の駆逐艦を率いて脱出を図ったが全艦がアメリカ海軍に捕捉されて沈没し、セルベラは捕虜となった(この時、彼の息子もまた同海戦へ出撃して捕虜となった)。
※この「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の解説は、「パスクワル・セルベラ」の解説の一部です。
「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」を含む「パスクワル・セルベラ」の記事については、「パスクワル・セルベラ」の概要を参照ください。
サンチャゴ・デ・キューバ海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 06:11 UTC 版)
「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の記事における「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の解説
防戦にあたるスペイン側では陸戦の見通しは立たなかったが、この間に艦隊はキューバ総督の指揮系統に加えられ、本国およびキューバ総督からの出撃が命令された。セルベラ提督は4隻の装甲巡洋艦と2隻の駆逐艦を率いて脱出を迫られた。脱出計画として、スペイン艦隊は戦力に劣るが比較的優速であるため、アメリカ側優速艦のニューヨークとブルックリンのうち一隻以上が不在の時に脱出を行い、旗艦のマリア・テレジアが衝角攻撃を含めて敵を引き受けている間に、マリア・テレジアと陸地の間を他の艦が進み、ハバナまたはシエンフエゴスへ脱出するというものであった。 7月2日、16時に艦隊は夕闇を利用して脱出する予定だったが、陸戦に転用された艦隊海兵の収容に手間取ってしまい、実際の出撃は3日朝となった。スペイン艦隊は給炭船メリマックによる閉塞の影響もあって、一列での出港に手間取ってしまい、港口通過順は下記の通りとなった。 装甲巡洋艦インファンタ・マリア・テレサ(艦隊司令官セルベラ提督、艦長ビクトル・M・コンカス・イ・パラウ大佐) 装甲巡洋艦ビスカヤ(艦長アントニオ・エウラテ大佐)。負傷捕虜。 装甲巡洋艦クリストーバル・コロン(司令官ドン・ホセ・デ・パレデス・イ・シャコン代将、艦長ドン・エミリオ・ディアス・モレウ大佐) 装甲巡洋艦アルミランテ・オケンドー(艦長ホアキンM・ラサガ大佐) 駆逐艦フロール(魚雷艇小艦隊隊長フェルナンド・ビジャアミル大佐) 駆逐艦プルトーン 封鎖を続けていたアメリカ艦隊では、サンプトン提督が座乗していた旗艦のニューヨーク(艦長フレンチ・チャドウィック)が陸軍のシャフター将軍との交渉のために哨戒線を離脱中で、他に陸軍支援のためにシボネー沖に巡洋艦ハーバード、運送船セグランサがおり、戦艦マサチューセッツ、巡洋艦ニューアーク、ニューオーリンズ、砲艦スワニーが給炭のために占領したグアンタナモ港に離脱していた。開戦時に近接封鎖を続けていた有力艦は下記の通りだった。 装甲巡洋艦ブルックリン(艦長クック大佐、シュレー提督の旗艦) 戦艦テキサス(艦長ジョン・ウッドフォード・フィリップ) 戦艦アイオワ(艦長ロブリー・エヴァンズ) 戦艦オレゴン(艦長チャールズ・クラーク) 戦艦インディアナ(艦長ヘンリー・テイラー) 砲艦グロースター(艦長リチャード・ウェーンライト) 砲艦ヴィクセン 戦闘艦のマリア・テレジアは9時30分ごろからアメリカ艦隊と砲撃戦を開始し、他艦を逃がすために中央を進んで大口径砲弾を含む集中放火を浴びたほかに、5.5インチ砲が腔発を生じ、弾薬にも引火して火災が広がった。コンカス艦長は重傷を負い、代わって直接指揮を取ったセルベラ提督は10時30分ごろには艦を陸に座礁させてることを命じた。やや外洋寄りを進んだ2番艦のビスカヤと海岸近くを航行した3番艦のコロンの2隻はマリア・テレジアが犠牲になっている間に一時西方に脱出した。しかし4番艦のオケンドーと駆逐艦2隻は港を出た途端にアメリカ封鎖艦隊の攻撃を受けた。オケンドーはテキサスに命中弾を与えたが10時30分ごろには陸地に衝突して二つに割れて沈没した。脱出した2艦を追ったのはブルックリン、テキサス、オレゴンの3隻であった。ブルックリンは11時前にビスカヤを捕捉し始め、ビスカヤの砲弾が命中しなかったのに対し、斉射法による命中弾を多数与え、続いて砲撃に加わったオレゴンの砲弾がビスカヤの魚雷に命中して11時15分ごろにビスカヤは大爆発を起こして沈没した。残ったコロンは12時30分ごろに速力が低下し、45分ごろにブルックリンとオレゴンが砲撃を始めた。抵抗を諦めたコロンは戦闘旗を降ろして陸地に進路を取り自沈した。スペイン艦隊は自沈も含めて全艦がアメリカ海軍に捕捉されて沈没した アメリカ側の損害は戦死者1人、負傷者10人に対し、スペイン側では戦死者323人、負傷者151人、将校70人を含む1,600人が捕虜となった。セルベラ提督も捕虜となり、マリア・テレサ艦長コンカスは重傷、ビスカヤ艦長エウラテも負傷して捕虜、駆逐艦魚雷艇小艦隊隊長フェルナンド・ビジャアミルは戦死、セルベラ提督の子、ドン・アンヘル・セルベラ大尉も捕虜となった。
※この「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の解説は、「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の解説の一部です。
「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」を含む「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の記事については、「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の概要を参照ください。
- サンチャゴ・デ・キューバ海戦のページへのリンク