グループ49
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グループ49とは、カジミェシュ・セロツキ、タデウシュ・バイルト、ヤン・クレンツからなる3人のポーランドの作曲家[1][2][3]を指す。
概要
1949年に結成した所以でこの名がつけられた[4]。この会の結成を以ってポーランド楽派[5][6][7]の誕生とされるが、この楽派に特有の音響美が開花するのはヤニス・クセナキスのデビュー後のことになる。50年代の時点で個性の萌芽は三人とも認められるものの、彼らが真の個人様式に到達したのは60年代後半以降のことであるので、比較的長持ちした連合であったと言えよう。
セロツキ、バイルトらが作風を60年代末に完成させた後は、クレンツは作曲活動から遠のき指揮活動へ積極的になってゆくが、80年代後半からは作曲活動へカムバックしている。セロツキ、バイルトは1981年に相次いで亡くなり、最後のメンバーのクレンツは2020年に亡くなった。
脚注
- ^ Portrait of Group 49
- ^ Group 49 and fight for the father (1949–1954)
- ^ Art attractive for the masses or fetters of the artistic freedom? Elements of folklore in the music of polish socialist realism by kinga krzymowska-szacon
- ^ “Symphony No.1”. musicinmovement.eu. musicinmovement.eu. 2020年9月1日閲覧。
- ^ Pollack, Howard (1999). Aaron Copland: The Life and Work of an Uncommon Man. Henry Holt and Company Pollack p. 465
- ^ Rappoport-Gelfand, Lidia (1991). Musical Life in Poland: The Postwar Years, 1945-1977. Gordon and Breach pp. 68-69
- ^ Thomas, Adrian (2005). Polish Music Since Szymanowski. Cambridge University Press p. 159
グループ49
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「ポーランドの現代音楽」の記事における「グループ49」の解説
グループ49の3人、カジミェシュ・セロツキ、タデウシュ・バイルト、ヤン・クレンツは60年代に才能が開花した。作曲家兼ピアニストのセロツキは活動当初から同音連打に拘るなど、音色美志向が顕著であった。ピアノ独奏のための「プレリュード組曲(1952)」のいくつかのシーンが、ポーランド初の十二音技法で作曲された作品であるとされる。そして、彼の作風を決定付けた「ドラマティックストーリー」、「フォルテとピアノ」、「カデンツァ風協奏曲」、「コンティヌーム」他で名声を確実にした。未知の音響への興味はやがてライヴ・エレクトロニクスの実践へ繋がり、「ピアノフォニー」でクラスター音響がホール中を周回するといった音源の位置への関心を高めてゆく。これ以降は新古典的書法が復活し、形式感も明解になってゆくが1981年に急逝した。 活動初期にはカロル・シマノフスキに傾倒したバイルトは「ポーランドのアルバン・ベルク」と称されるほどロマンティックな語法への関心が高く、一通り前衛イディオムを学んだ後、「交響曲第三番」、「ゲーテの手紙」、「オーボエ協奏曲」、「明日」で独自の作風を確立する。クラスターを解離音程の絡み合いと解釈した独自の音響美が特徴的である。最終的には叙情的なアダージョと断定的なアレグロの二項対立の様式へ還元されていった。1970年代以降書法が穏健になってゆき、1981年に急逝した。 クレンツは活動当初から指揮者としての活動のほうが顕著であり、初期のポーランド楽派の作品群は全て彼の指揮によって演奏されたといっても過言ではない。近年は作曲活動に復帰しており、シマノフスキの「仮面劇」をオーケストラ編曲したことで知られている。
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