ガリア人との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 16:45 UTC 版)
「マルクス・クラウディウス・マルケッルス」の記事における「ガリア人との戦い」の解説
丁度この頃、それまで半世紀の平和を保っていたガリア・キサルピナのガリア人との関係が悪化し、反乱が起きた。紀元前232年に護民官ガイウス・フラミニウスが成立させた土地分配法が原因の一つとされている。紀元前225年にはテラモンの戦いでボイイ族を打ち破ったものの、更に北方のインスブレス族らとの戦いが続いていた。 紀元前222年に執政官(コンスル)に就任すると、ガリア・トランサルピナから引き込まれていたガリア人の傭兵ガエサタエとクラスティディウム付近で遭遇する(クラスティディウムの戦い)。マルケッルスと敵の指導者の一人ウィリドマルス(Viridomarus)はお互いの姿を認めるとまっしぐらに駆け寄り、マルケッルスが討ち取ってしまった。この指揮官から剥ぎ取った武具を神々に捧げ、ローマで最高の栄誉とされるスポリア・オピーマを得たという。このスポリア・オピマを得たのはマルケッルスが3人目(他の2人は半ば伝説の人物で、歴史上の実在が確認できるのは彼のみである)であり、また最後でもあった。 この戦闘の後、メディオラヌム(現在のミラノ)で苦戦していた同僚グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスの救援に赴き、メディオラヌムを陥落させ、ローマに帰還後、マルケッルスのみが凱旋式を挙行した。
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