カスティーリャ、アラゴンへの併合と再独立
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「ナバラ王国」の記事における「カスティーリャ、アラゴンへの併合と再独立」の解説
ナバラ王国はその後独立を維持することが困難になり、近隣の大勢力の国々に依存することになる。ガルシア5世(1035年 - 1054年)の後、自らの弟に暗殺されたサンチョ4世(1054年 - 1076年)が治め、その後はアラゴン王がナバラ王国の地を治めることとなる。カスティーリャ王国はナバラ王国の西部を支配した。12世紀にはカスティーリャ王国は徐々にリオハとアラバを併合した。ナバラはアラゴンと連合(1076年 - 1234年)することにより東部の紛争を避けることが出来たが、西部はカスティーリャに取られたままとなった。1200年前後にはカスティーリャ王国のアルフォンソ8世が他のバスク地方の2地域(現在では県)であるビスカヤとギプスコアを併合した。タラソナは1134年のナバラの再独立後もアラゴンの所有のままとなった。バスク地方のビスカヤ統治はカスティーリャ保護下でも独立に近い状態が続き、そのため、これらの王子たちはビスカヤ統治公と呼ばれた。 サンチョ4世の暗殺(1076年)後、カスティーリャ王アルフォンソ6世とアラゴンのサンチョ・ラミレスは共同でナバラの統治にあたった。エブロ川以南の町とバスク地方がカスティーリャの統治となり、残りがアラゴン統治となり、1134年まで続いた。アラゴン統治者3代、サンチョ・ラミレス(1076年 - 1096年)と息子のペドロ・ラミレス(1094年 - 1104年)はウエスカを征服し、ペドロ・サンチェスの弟アルフォンソ・エル・バタラドール(戦闘王、1104年 - 1134年)は王国最大の領土拡張を達成した。ムーア人からトゥデラを奪取(1114年)し、1042年に失したブレバ全土を奪還し、ブルゴ州へと侵攻した。さらに、ロハ[要曖昧さ回避]、ナヘラ、ログローニョ、カラオラ、アルファロは彼に従い、ギプスコアの港に戦艦を停泊させている間の短期間ではあるがバイヨンヌも従った。1134年、特に何事もなく彼が死んだ後は、ナバラとアラゴンは分離した。アラゴンでは聖職者であったアルフォンソの弟ラミロが王位に就いた。 ナバラでは、ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(エル・シッド)の孫であり、サンチョ大王の子ガルシア5世(ナバラ王としては3世)の庶流であるモンソン卿ガルシア・ラミレスが、大王の庶子ラミロ1世の系統であるアラゴン王家に奪われていたナバラ王位を、1134年に取り戻した。ガルシア・ラミレスは1136年にはリオハをカスティーリャに明け渡し、1157年にはタラゴナをアラゴンに明け渡し、さらにはカスティーリャのアルフォンソ7世の家臣だとも名乗ったりした。彼は全く無能であり、たびたび教会や修道院の収入の世話になっている。 ガルシア・ラミレスの息子サンチョ・ガルシア・エル・サビオ(賢王、1150年 - 1194年)は学習熱心の末、政治家としても有能となり、ナバラを内外共に強固にし、多くの町に憲章を制定し、戦争でも負けなかった。賢王は娘ベレンゲーラをイングランド王リチャード1世と結婚させることに同意する。ナバラまでピレネー山脈を越えやって来たリチャードの母アリエノール・ダキテーヌがベレンゲーラをシチリアへと連れて行き、まさに第3回十字軍に身を投じんとする息子に引きあわせ、1191年5月12日にキプロス島で2人は結婚した。彼女はイングランドに足を踏み入れなかった唯一のイングランド王妃である。
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