オランカイ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
詳細は「加藤清正のオランカイ侵攻(英語版)」および「zh:萬曆朝鮮之役#明朝增兵」を参照 7月下旬から8月中旬までの期間、加藤清正は、「オランカイ(女真族)」 の戦力を試すために、豆満江を渡って満州に入り、近在の女真族の城を攻撃した。現在の局子街付近であるという。それまで女真は度々国境を越えて朝鮮を襲撃していたため、咸鏡道の朝鮮人3,000人もこれに(加藤清正の軍勢8,000人に)加わった。まもなく連合軍は城を陥落させ、国境付近に宿営したが、日本軍は女真からの報復攻撃に悩まされた。依然優位には立っていたものの、撤退した。二番隊は東へ向かい、鍾城、穏城、慶源、慶興を占領し、最後に豆満江の河口のソスポに達した。この後、清正は秀吉に「オランカイから明に入るのは無理である」と秀吉に報告しており、ただ戦っただけではなく、明への進攻ルートを探す目的があったと思われる。 この女真侵攻を受けて、女真族の長ヌルハチは明と朝鮮に支援を申し出た。しかしながら、両国ともこの申し出を断った。特に朝鮮は北方の「野蛮人」の助けを借りるのは不名誉なことだと考えたといわれている。
※この「オランカイ侵攻」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「オランカイ侵攻」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。
- オランカイ侵攻のページへのリンク