エル‐タヒン【El Tajin】
エル・タヒン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/25 00:44 UTC 版)
エル・タヒン (El Tajín)は、古典期後期 (A.D.600-900) から後古典期前期 (A.D.900-1200) まで繁栄した祭祀センターであり、世界遺産に登録されている考古遺跡の一つである。ベラクルス州、パパンテカ山塊 (Sierra Papanteca) の脇、パパントラの町の南西8kmにある、二つの渓谷の間の北緯20°38′35″、西経97°22′39″の地点に位置する。エル・タヒンという名称は、タヒンと呼ばれる12人の老人がこの遺跡に住んでおり、彼らは雷雨の神であるという地元のトトナク族の神話伝承に由来している。前述のように現在トトナク人が近隣に住んでいるため、トトナク人の建てた都市とされてきたが、最近[いつ?]の研究の成果に伴いマヤ系のワステカ人によって建設されたものではないかという説が有力になりつつある。
注釈
- ^ オーストリア人写真家。チャールズ・ピカリング・パウヴィッチによって雇われ、セイバル、ティカル、ヤシュチラン、ピエドラス・ネグラス、ナランホなどの遺跡の踏査及び撮影を行った。
- ^ Krotserは、古典期前期のエル・タヒンの人口は、3000人から5000人くらいと算出した。
- ^ このような石碑はマヤ遺跡でも散見される。
- ^ 例えば、コパンではゆるやかな斜面から垂直に立ち上がる壁の部分、チチェン・イッツァなどのマヤ遺跡やモレーロス州のショチカルコなどでは、ボールを通す「輪」が球戯場の壁面などにとりつけられている。
- ^ Wilkersonはすくなくとも13ヶ所と述べているが [1] 、青山は、17ヶ所と述べている。本稿では新しい文献の記述にしたがう[2]
- ^ ウィルカーソンはrefubishedと表現する。おそらくマヤなどで見られるように古い神殿のうえにかぶせるように新たに神殿を建てることを指しているとおもわれる。
- ^ ウィルカーソンは金星神と考える。おなじ神は四番目のいけにえがささげられる場面にあらわれる。
- ^ これに似た楽器としては、キダーが発掘調査したカミナルフューのマウンドAやマウンドB、アリゾナ州立大学によるテオティワカンの調査で確認された「羽毛の蛇の神殿」の墓の副葬品がある。
- ^ メソアメリカには、幻覚を引き起こすキノコやペヨーテというサボテンなど幻覚を誘発する植物を儀式の際に飲食するなどして用いられた。
- ^ ウィルカーソンは、踊る鳥に扮装した人物はパルマによく刻まれるワシを表しており、いけにえの儀礼と関係すると指摘する[4]。また、1986年の段階では球戯を行う際に音楽を奏でつつ瞑想している場面ではないかと述べており[5]、研究の進展につれてより具体的な意見にかわったと思われる。
- ^ Kampenは、犬ではないかと考えるがウィルカーソンは、犬かジャガーと考え、マイケル・コウとともに金星神の一つの姿であると考える[6]。
- ^ メソアメリカの人々の中には、マヤ人をはじめとして月にはウサギがいると考える人々がいた。マヤ文字に月とウサギが同時に表現される例やウサギを抱える月の女神などの表現がみられる。
- ^ Kampenは、血か精液と断定をさけているが[8]、ウィルカーソンは血であると断定している。
- ^ これに類するものとして、マヤの放血儀礼に、ペニスに孔を開けて糸を通して血を神にささげる儀式が挙げられる。ナフ・トゥイニチ洞窟の壁画などからもうかがわれる。ちなみに女性は舌に孔を開けて血をささげた。
- ^ ウィルカーソンは「生贄にされた球戯者が雨と風の神のいる地下王国へ行き「あわの山」と呼ばれる伝説的な場所の神殿の醸造槽に熟成されたプルケ酒を請い求めている場面が描かれる。」[9]と考える根拠として壁龕のピラミッドの近くから発見された中央部が破損した台形のレリーフに刻まれた場面が、南球戯場レリーフの3番目の場面に人物配置がよく似ていることを想定していると思われる[10]。南球戯場レリーフのみを見ると確かに3番目の場面の右から2番目の人物と5番目の場面の壺をもった人物が酷似しているが、4番目の場面のいけにえとなった人物と似ている特徴が少ないため、別人の可能性もあり、単純にチャクモール様の人物をさしていけにえが行われたことを神々に向かって示しているようにも思われる。
- ^ 青山は「石柱の建物」という訳語を充てている[11]が、投稿者が『ユネスコ世界遺産』 (1) 北アメリカ編の記述に基づいて「円柱の館」で作図したので、本文中も「円柱の館」の訳語を充てるものとする。
出典
固有名詞の分類
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