エキュメニカルな関係構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 00:05 UTC 版)
「アシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教)」の記事における「エキュメニカルな関係構築」の解説
総主教はカトリック教会、聖公会との対話に努め、エキュメニズムに取り組んだ。パウロ6世とは1964年にエルサレムで会談し、その後1054年の相互破門は正教会・カトリック教会の双方から取り消された。1965年のカトリックと正教会の共同宣言(英語版)を作成し、1965年12月7日、ローマでは第2バチカン公会議の公開の議事のひとつとして、またコンスタンディヌーポリでは特別式典の席上という2つの場を得て読み上げられたのである。物議をかもした宣言は教会の東西分裂を終わらせることはなかったものの、むしろパウロ6世とアシナゴラス総主教それぞれの代表する2つの教会がより大きな和解を望むことを示唆した。 こうしたエキュメニズムへの取り組みは正教会内の保守派から厳しい批判を受けた。その急先鋒のひとりで公然と批判したのが在外ロシア正教会の府主教フィラレートであり、1965年に総主教へ宛てた手紙のなかで、総主教がローマカトリック教会との和解を務めることは異端につながる恐れがあると非難した。 ただし、元々「1054年の相互破門」において双方の教会が破門対象とした者達は個人的な限定された範囲にとどまっていたこともあり、「1054年の相互破門の解消」も象徴的な意味合いをもつにとどまっている。 「東西教会の分裂」も参照 総主教は1972年7月6日、腰椎骨折で入院した翌日、イスタンブール(コンスタンティノープル)で腎不全のため永眠した。満87歳。ブラケルナエの聖母マリア教会(英語版)(イスタンブールのファーティフ街区(英語版))の敷地内墓所に眠る。
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