インドネシアの武器引き渡し要求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 10:33 UTC 版)
「スマラン事件」の記事における「インドネシアの武器引き渡し要求」の解説
一方、8月17日にインドネシア独立宣言を発表したインドネシアの独立派は、予想されるオランダとの戦争に備えるために、日本軍に対して武器の引き渡しを要求した。しかし、日本軍はこの要求を拒んだ。また、日本の第7方面軍司令部は、インドネシア人から成る郷土防衛義勇軍や兵補(日本軍の補助戦闘員)を解散させ、武器も回収するよう8月18日には命じていた。連合国軍からも、現地人の武器携帯を禁止することなどが命令されていた。 インドネシア独立派の日本軍に対する要求は次第に激しくなった。9月には日本軍の小部隊や倉庫を襲撃して武器の強奪を狙う者もあらわれた。連合国軍の進駐が進むにつれ、焦ったインドネシア側の行為はさらに過激化した。ジャワ島の日本軍第16軍司令官は、指揮下部隊に武器の使用を禁止する命令を発していたため、各部隊は対応に苦慮した。 東部ジャワのスラバヤでは、板挟みとなって困った日本軍東部防衛隊司令官らが、連合国軍が武器を引き取るよう求めた。これを受けてオランダ海軍のフェーエル(ハイヤー、ホイエル、Pieter Johannes Gerard Huijer)大佐は、10月3日に日本の提案に同意した。ところが、フェーエル大佐は、以後の治安維持は現地人警察に委ねるとしたため、東部ジャワの日本軍の所有武器の大半を独立派が入手する結果となった。 スラバヤでの引渡許可を先例に、インドネシア独立派は他の地域の日本軍にも同様の引き渡しを求めた。ジャワ西部のバンドンでは多数の住民が武装して集結し、日本軍の憲兵隊や自動車部隊、飛行場を襲撃したが、10月10日に日本軍西部防衛隊が鎮圧。日本兵3人とインドネシア人十数人が死亡した。インドネシアでは、この戦闘が以後の武力衝突の発端であるとしている。このほか、同じくジャワ西部のガルーで工場の警備をしていた日本兵42人が無抵抗のまま全員殺害される事件や、竹下海軍大佐一行86人がブカシで拉致殺害される事件も起きた。竹下大佐らの事件ではスカルノ大統領署名の通行許可証を携帯していたが、武器提供を拒んできたことを理由に殺害されている。
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