アレクサンデル6世との対立
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「ユリウス2世 (ローマ教皇)」の記事における「アレクサンデル6世との対立」の解説
当時の枢機卿団の中で影響力を持っていたもう1人の人物ロドリゴ・ボルジアとは互いをライバル視するようになっていった。しかし1492年のコンクラーヴェでは、アスカニオ・スフォルツァの抱きこみに成功し、巨額の賄賂によって枢機卿たちの票を買いまくったボルジアが圧勝し、教皇アレクサンデル6世を名乗ることになった。敗れたローヴェレは身の危険を感じてオスティアに逃れ、さらにパリへと逃れた。パリではフランス王シャルル8世の身辺にあってナポリ王国への継承権を主張するようそそのかしていた。 1494年、ついにシャルル8世を動かすことに成功したローヴェレはフランス軍と共にイタリアへ侵入、アレクサンデル6世の抵抗を排除しローマ入城に成功した。ここで汚職の噂に事欠かなかったアレクサンデル6世を断罪し、退位させることができると思ったが、そこはアレクサンデル6世のほうが一枚上手であった。アレクサンデル6世はシャルル8世の腹心ブリソネーに枢機卿を与える約束をしてその地位を保障されたのだった。 その後一旦アレクサンデル6世と和解したが、打倒ボルジアの野望を捨てず1503年にアレクサンデル6世が没すると、ローヴェレはミラノのピッコロミニ枢機卿を支持して、教皇選出に大きな役割を果たした。これがピウス3世である。しかし、ピウス3世は病にたおれて急逝。ローヴェレは、かつての仇敵アレクサンデル6世の庶子で教会軍総司令官であったチェーザレ・ボルジアの支持を取り付けるという政治的な離れ業をおこなって教皇位につき、ユリウス2世を名乗った。用済みとなったチェーザレは捕縛され、ナバラ王国に脱走したが、1507年に戦死した。
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