アルベルト・フジモリ大統領
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「日本とペルーの関係」の記事における「アルベルト・フジモリ大統領」の解説
「アルベルト・フジモリ」も参照 1990年7月に、アルベルト・フジモリは日系の人物で初めてペルーの大統領になった。 フジモリ大統領が選挙で選ばれた数か月後、何人かの日本人と日系ペルー人が攻撃され、センデロ・ルミノソとトゥパク・アマル革命運動という2つのゲリラグループによって誘拐または殺害された。1992年にはフジモリ大統領が日本を訪問した。 1996年12月27日、14人のトゥパク・アマル革命運動のメンバーがリマの日本大使公邸を襲撃し、今上天皇(当時)の63歳の誕生日を祝っていた400人以上の外交官僚及び軍関係者を人質に取った。彼らはフジモリ大統領がパーティーに出席すると思っていたが、大統領が出席していないと気づいた時、彼らはペルー政府に投獄されていた300人の同志の釈放を要求した。この事件は在ペルー日本大使公邸占拠事件 として知られるようになり、1997年4月22日にペルーの部隊が大使公邸に入り、14人のメンバー全員を殺害するまで続いた。この包囲の間に、最高裁判所裁判官のカルロス・ジュスティが作戦で死亡し、また2人の兵士が殺された。日本の首相橋本龍太郎は人質の解放についてペルーに感謝した。 2000年11月、フジモリ大統領はブルネイで開催される第12回APECのサミットに参加した。サミット後、彼は日本に移動し、腐敗スキャンダル問題で政治が混乱していたため東京から大統領職辞任の意をファックスで送信した。日本政府は、フジモリは日本国籍保持者であるため、日本滞在には何の問題もないとした。ペルー政府はアレハンドロ・トレド大統領のもと、20の刑事訴訟に掛けられたフジモリを引き渡すよう日本に要求したが、日本は拒否した。 2006年、フジモリは日本から出てメキシコ・チリへ向かっていたところを逮捕された。彼はペルーに戻って大統領に立候補することを試みていた。
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