アフリカ戦線崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 15:22 UTC 版)
「ハンス・フォン・ルック」の記事における「アフリカ戦線崩壊」の解説
1943年1月23日、トリポリは英国軍の手に落ちた。 数日後、近辺に展開する連合軍の高級将校に関する報告を行うべく偵察を続けていたルックは、双眼鏡越しにモントゴメリーとサファリ・ヘルメットを被ったチャーチルらしき男との会談を目撃する。チャーチルが英国本土を遠く離れたアフリカの最前線に現れたとは考えにくいが、ルックは回顧録の中で「実際、ロンメルがチャーチルを撃つなと命じたことを思い出した」と記している。1月末、ルックはSAS創始者として名を知られる英軍のデビット・スターリング(英語版)大佐を捕虜とした。 2月1日、ロンメルはトーチ作戦によりモロッコに上陸していた米軍への攻撃を開始した。ルックには攻勢側面の警戒及び撤退する米軍への妨害攻撃を命じられた。 2月19日、ルックはカセリーヌ峠を奇襲により確保せよと命じられたが、この計画は米軍に露呈しており、ルックの攻撃は厳重な防衛と反撃の元、水泡に帰した。しかし、数日後には第21及び第10装甲師団を率いたロンメルがカセリーヌ峠を再攻撃し、数日のうちに突破した。米軍は強固に抗戦したものの、彼らの戦車ではIV号戦車F2型(英国では「MkIVスペシャル」と呼称)及びティーガーⅠに太刀打ちできなかったのである。 その後、ルックは前進の支援を続けたが、彼の大隊は装甲戦力と弾薬の大半を失っていた。3月初めまでに彼は本国へ召還され予備役に編入された。
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