その後のフィタリエンブリューダーとリケデーラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/17 06:28 UTC 版)
「フィタリエンブリューダー」の記事における「その後のフィタリエンブリューダーとリケデーラー」の解説
フィタリエンブリューダーが敗れてゴットランドを出て行った後、ハンザ同盟は何度もバルト海の海上覇権を握ろうとしたが、失敗した。というのも、まだフィタリエンブリューダーの残党が各海域に残っていたからである。彼らはボスニア湾、フィンランド湾、ゴットランドを追われると、エムス川河口のシュライ湾やフリースラントの各地に拠点を移した。フィタリエンブリューダーの後継者たちは、リケデーラー(ドイツ語: Likedeeler、「平等な分配者」の意)を名乗った。彼らは戦利品を沿岸地域の貧者に分け与えたのである。リケデーラーは北海や大西洋沿岸にまで活動範囲を広げ、ブラバントやフランス、さらにはスペインまで南下して沿岸を襲撃した。 フィタリエンブリューダーあるいはリケデーラーの指導者としては、クラウス・シュテルテベーカーが名高い。彼は1394年ごろにフィタリエンブリューダーとして歴史上に現れる。シュテルテベーカー(Störtebeker)は低地ドイツ語で「ビーカー一杯を飲み干す者」を意味する。この名は、彼がビーカー(壺)を口から離さず4リットルものビールを飲みほしたという逸話に由来しているあだ名だとされている。ただ、この名は単にヴィスマール出身の生まれ持った姓である可能性もある。1401年、シモン・ファン・ユトレヒトと戦艦ブンテ・クー号率いるハンブルクの小艦隊が、ヘルゴラント島付近でシュテルテベーカー艦隊を捕捉した。3日間にわたる絶え間ない戦闘の末、シュテルテベーカーと彼の部下たちは敗れて捕らえられ、処刑された。 しかしその後も、リケデーラーの沿岸襲撃は続いた。シュテルテベーカーの処刑から実に28年後である1429年には、重要な貿易港であるベルゲンをフィタリエンブリューダーの一団が襲撃して略奪し、最終的に焼き払った。北海やバルト海の海上交易は、1440年ごろまでリケデーラーの脅威にさらされ続けた。
※この「その後のフィタリエンブリューダーとリケデーラー」の解説は、「フィタリエンブリューダー」の解説の一部です。
「その後のフィタリエンブリューダーとリケデーラー」を含む「フィタリエンブリューダー」の記事については、「フィタリエンブリューダー」の概要を参照ください。
- その後のフィタリエンブリューダーとリケデーラーのページへのリンク