梶木源次郎(かじきげんじろう 仮に1812-1892)
紙風船式折りたたみ地球儀を作製。
梶木源次郎は、紙風船式折りたたみ地球儀「万国富貴球」を作製した(27cm、1873)。
同一人だとの確証はないが、同時期、兵庫県有馬に梶木源次郎がいた。明治6年湯山町町長だった、その梶木源次郎(1812~1893)は、有馬の杉ケ谷に炭酸ガスを含む泉があることを聞き、毒水と恐れられていたこの泉の調査を兵庫県庁・内務省に依頼し、その検定により良質の炭酸水であることが明らかになった。
有馬には赤湯と呼ばれる塩化ナトリウム泉があり、これを金泉と呼ぶ。一方、この炭酸泉は二酸化炭素冷鉱泉で通称、銀泉と呼び有馬温泉を代表する湯となる。その炭酸水は、のちに炭酸煎餅に、そして日本初のサイダーとしても発売される。
そして、実子森琴石(1843-1921)は、明治期の大阪で、銅版画・南画の両分野で活躍する。銅版画家としてユニークな活動をし、諸国名所地図(有馬市街之図、神戸布引滝之図、庫舞子之浜図など)、漢籍辞書、教科書など幅広く制作し、手掛けた銅版(一部木版)による書誌類は100種を超え、明治期大阪の出版印刷業界、銅版技術の第一人者であったという。実子のことからではあるが、多少は地球儀とのつながりを感じるのだが、果たして紙風船式折りたたみ地球儀の梶木源次郎と有馬温泉の梶木源次郎は同一人物だろうか?
有馬温泉炭酸源泉(銀泉)
梶木源次郎は、紙風船式折りたたみ地球儀「万国富貴球」を作製した(27cm、1873)。
同一人だとの確証はないが、同時期、兵庫県有馬に梶木源次郎がいた。明治6年湯山町町長だった、その梶木源次郎(1812~1893)は、有馬の杉ケ谷に炭酸ガスを含む泉があることを聞き、毒水と恐れられていたこの泉の調査を兵庫県庁・内務省に依頼し、その検定により良質の炭酸水であることが明らかになった。
有馬には赤湯と呼ばれる塩化ナトリウム泉があり、これを金泉と呼ぶ。一方、この炭酸泉は二酸化炭素冷鉱泉で通称、銀泉と呼び有馬温泉を代表する湯となる。その炭酸水は、のちに炭酸煎餅に、そして日本初のサイダーとしても発売される。
そして、実子森琴石(1843-1921)は、明治期の大阪で、銅版画・南画の両分野で活躍する。銅版画家としてユニークな活動をし、諸国名所地図(有馬市街之図、神戸布引滝之図、庫舞子之浜図など)、漢籍辞書、教科書など幅広く制作し、手掛けた銅版(一部木版)による書誌類は100種を超え、明治期大阪の出版印刷業界、銅版技術の第一人者であったという。実子のことからではあるが、多少は地球儀とのつながりを感じるのだが、果たして紙風船式折りたたみ地球儀の梶木源次郎と有馬温泉の梶木源次郎は同一人物だろうか?
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