紋船(あやぶね)
琉球王が薩摩(さつま)藩へ差し向けた修好使船。薩摩に焼酎を伝える役割も果たしたものと推定されている。舳(へさき)に青雀・黄龍を描いた非武装船で、文明一三(1481)年八月に来航したと『島津国史』にあるのが記録の初見であるが、それ以前から派遣されていたようである。島津藩主の一代に一度遺わされる儀礼船であった。『中山王譜』の付巻によると、琉球王尚清のとき二回、尚永(1573~89年)のとき三回、尚寧(1589~1621年)のとき四回出ていることになっているが、島津側は尚清以後とだえたと主張している。永禄九(1566)年、島津貴久が没し、義久が家督を継ぎ、元亀元(1570)年、これを琉球に伝えたが応答なく、さらに天正元(1573)年、再度使者を遺わしたが、尚永王の三司官は使者に対し侮辱を加えたという。これが「紋船欠礼事件」で、島津氏の琉球進攻の口実の一つとなった。慶長一四(1609)年の島津の琉球入り衣降、慶摩への進貢船は楷船(かいせん)と呼ばれるようになった。
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