『アラキリ』創刊
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「フランソワ・カヴァナ」の記事における「『アラキリ』創刊」の解説
1954年、前年にジャン・ノヴィによって創刊された月刊誌『Zéro (ゼロ)』に寄稿することになった。当時、この雑誌は「街頭新聞売り」が個別に販売するだけで、店頭には置かれていなかった。後に共同で『アラキリ』を創刊することになった「ショロン教授」ことジョルジュ・ベルニエ (Georges Bernier) はこうした街頭新聞売りの一人であった。二人は1960年9月に「バカで意地悪な新聞」と銘打った『アラキリ』第一号を刊行した。挑発的、嘲笑的でときには猥雑な風刺画を多数掲載したこの新聞の目的は、まさにこのような画により見栄っ張りで上品ぶった偽善者を挑発し、社会の既存概念に揺さぶりをかけることであった。 ダダイズムの精神を受け継ぎ、あまりにも「意地悪な」、ときにはあまりにも「ブラックな」ユーモアを特徴とするこの新聞は、フランス報道界に旋風を巻き起こすことになった。カヴァナのもとに集まったのは、同じように移民・労働者階級出身で才能豊かなトポール (Roland Topor)、ジャン=マルク・レゼール、ジェベ (Gébé : Georges Blondeaux)、ジョルジュ・ウォランスキ、カビュらの若者たちであり、彼らは『アラキリ』の活動を通じて戦時中の軍国主義そして戦後の消費社会に徹底的に反対する姿勢を貫いていた。 一方でまた、この頃初めてテレビ番組等による有害な影響から未成年者を保護する法律が施行され、検閲が行われるようになったため、『アラキリ』は早くも創刊10か月後に短期間だが発禁処分を受けた。その後1966年に二度目の発禁処分を受け、致命的な痛手を被ることになった。
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