『みすゞかる信濃』の「黒姫伝説」
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「黒姫伝説」の記事における「『みすゞかる信濃』の「黒姫伝説」」の解説
1941年(昭和16年)発行の『みすゞかる信濃』に黒姫伝説に関する記述があるので紹介する。物語の大筋は『下高井郡誌』・『信濃の伝説』の「黒姫物語」とほぼ同様であるが、黒姫の父親を政盛ではなく盛頼としていたり、洪水で黒姫が流されている(直接的な描写はないが、「押し流された黒姫の事を悲んで居つた」という記述が見られる)など、いくつかの相違点がある。 高井郡日野城の高梨政盛には嗣子がなく、2番目の弟である盛頼が後を継いだ。盛頼の長子は政頼、その妹が黒姫である。黒姫は引く手あまたの美人で、高梨氏の親戚である長尾為景(上杉謙信の父親)の勧めで足利義尚(室町幕府第9代将軍)の侍女になる予定であった。 永正3年(1506年)の春、黒姫の寝室に近付く一人の美少年が現れる。報告を受けた盛頼は、その少年を捕らえるよう家臣らに命じるも逃げられてしまう。盛頼は自ら馬に乗って後を追い、名剣で少年の片腕を切り落とした。すると空は嵐となり、30か所余りの池が決壊し、日野城は流されてしまった。噂では、岩倉池・硯川の黒龍が黒姫を慕って通ったものの、名剣によって本来の力を発揮できず、そればかりか傷を負わされてしまったことで竜王の怒りに触れ、岩倉池を追われたうっぷんを晴らそうとしている、ということである。 真山城に撤退した盛頼は、風雨が収まったところで人々の救出策を講じた。領内での酒造りを禁じて米穀を確保するとともに、佐久からも食糧を調達した。政頼は祖先の盛光が信仰したという湯殿山の神社を参拝し、夢のお告げにより黒龍の居場所をつきとめる。一方、盛頼の夢の中には流されたはずの黒姫が現れ、名剣を欲した。黒姫は盛頼から名剣を授かると、山の中の池に潜む黒龍を退治し、そのとき流れた血が赤川となった。その山は黒姫山と呼ばれるようになり、美女が水の上で歌を詠む姿や、雨乞いに応えて雨を降らせるといったことも伝わる。 黒龍の住処とされる「岩倉池・硯川」について、現在の国土地理院の地図を参照しても志賀高原周辺には「岩倉池」を確認することはできないが、「硯川」という川名については熊の湯温泉付近にて確認することができる。
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