「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難の意味・解説 

「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 14:24 UTC 版)

カンプ・ダ・ラス・コルツ」の記事における「「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難」の解説

詳しくは「スペイン国歌へのブーイング」も参照FCバルセロナカタルーニャにおいて、1923-30年のプリモ・デ・リベラ政権対す抵抗シンボルとなっていた。カタルーニャ語規制次第厳しくなってきた1925年7月14日のこと、「クラブ上の存在」を地で行くような歴史的な出来事をラス・コルツは目撃したクラブCEジュピテル試合組んでおり、オルフェオー・カタルーニャ合唱団賛歌予定されていた。だが政府当局唐突に中止命じてきたため、会場埋めていたファンたちは激怒した結局試合行われ英国海軍楽隊(たまたまバルセロナ港停泊していた部隊)によってスペイン国家「国王行進曲」が英・西2か国語演奏された。だが会場からは凄まじい口笛鳴った。それはスペイン国歌をかき消したが、さらに観客英国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」には大きな拍手送った。当然政府怒り燃えた即時制裁無かったものの、ほどなくしてラス・コルツの6か月間使禁止通告、後に3か月縮小された。ジョアン・ガンペール会長辞意表明したスポーツ的な話をすれば、当時の最高の選手達-ヴァントラ、ライチ、アズクラーなど-を擁してはいても、クラブの財政悪化に伴い1930年代にはFCバルセロナ低迷期入ったカタルーニャ選手権で6回優勝するのがやっとで、スペイン全国規模タイトルが獲れなくなったスペイン内戦は、当然ながらバルサ何ら良いことをもたらさなかった。開戦直後時期フランコ指揮下の国民軍はジュゼップ・スニュル会長暗殺したチーム選手達はアメリカ大陸遠征中で、全体半分選手戦禍免れた1938年3月16日にはクラブ施設爆撃受けた同年秋には、カタルーニャ主義象徴的クラブ悲惨な状況にあった。アンリク・ピニャイロ会長1940年フランコ政権指名就任しクラブ名カスティーリャ風に(スペイン風に)「クルブ・デ・フトボル・バルセロナ」と改名したエンブレム中にあるサニェーラ旗の4本の赤い線も2本にされ、スペイン国旗配色に近いものに修正された。

※この「「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難」の解説は、「カンプ・ダ・ラス・コルツ」の解説の一部です。
「「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難」を含む「カンプ・ダ・ラス・コルツ」の記事については、「カンプ・ダ・ラス・コルツ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難」の関連用語

「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのカンプ・ダ・ラス・コルツ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS