「国王行進曲ブーイング事件」とその後の苦難
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詳しくは「スペイン国歌へのブーイング」も参照。 FCバルセロナはカタルーニャにおいて、1923-30年のプリモ・デ・リベラ政権に対する抵抗のシンボルとなっていた。カタルーニャ語規制が次第に厳しくなってきた1925年7月14日のこと、「クラブ以上の存在」を地で行くような歴史的な出来事をラス・コルツは目撃した。 クラブはCEジュピテルと試合を組んでおり、オルフェオー・カタルーニャ合唱団の賛歌も予定されていた。だが政府当局が唐突に中止を命じてきたため、会場を埋めていたファンたちは激怒した。結局、試合は行われ、英国海軍の楽隊(たまたまバルセロナ港に停泊していた部隊)によってスペイン国家「国王行進曲」が英・西2か国語で演奏された。だが会場からは凄まじい口笛が鳴った。それはスペイン国歌をかき消したが、さらに観客は英国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」には大きな拍手を送った。当然政府は怒りに燃えた。即時制裁は無かったものの、ほどなくしてラス・コルツの6か月間使用禁止を通告、後に3か月に縮小された。ジョアン・ガンペール会長は辞意を表明した。 スポーツ的な話をすれば、当時の最高の選手達-ヴァントラ、ライチ、アズクラーなど-を擁してはいても、クラブの財政悪化に伴い1930年代にはFCバルセロナは低迷期に入った。カタルーニャ選手権で6回優勝するのがやっとで、スペイン全国規模のタイトルが獲れなくなった。 スペイン内戦は、当然ながらバルサに何ら良いことをもたらさなかった。開戦直後の時期、フランコ指揮下の国民軍はジュゼップ・スニュル会長を暗殺した。チームの選手達はアメリカ大陸遠征中で、全体の半分の選手は戦禍を免れた。1938年3月16日にはクラブ施設が爆撃を受けた。同年秋には、カタルーニャ主義の象徴的クラブは悲惨な状況にあった。アンリク・ピニャイロ会長は1940年にフランコ政権の指名で就任し、クラブ名をカスティーリャ風に(スペイン風に)「クルブ・デ・フトボル・バルセロナ」と改名した。エンブレムの中にあるサニェーラ旗の4本の赤い線も2本にされ、スペイン国旗の配色に近いものに修正された。
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