龍門山の戦い 経緯

龍門山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 00:07 UTC 版)

経緯

米軍第9軍団の中央師団であった韓国軍第6師団は、中共軍の4月攻勢時に史倉里で敗戦を経験した後、前線の調整に応じて龍門山一帯に配備された。史倉里の戦いで低下した士気を回復し、弱体化した戦力を補強する一方で、名誉挽回のため精神武装と訓練に専念していた[2]

第6師団が配備された周辺は、京畿道楊平郡の龍門面と丹月面、加平郡の雪岳面と清平面一帯に海抜1,157mの龍門山が中心となって、北西に827高地、仲美山、通方山などが連なり、北東には鳳尾山、羅山、長楽山、559高地が山脈をなして洪川江まで続いていた。この地形は山岳機動を主とする中共軍には有利である一方、韓国軍には観測と射界が制限され不利に働いたが、周囲を見渡すことができる龍門山を占領していたため、中共軍の動静は一目でわかった。また警戒部隊の戦闘前哨線である蔚業山と彌沙里(龍門山北側約15km)、厳沼里(엄소리)の353高地(龍門山北側約10km)、ワンバリ(왕방리)の427高地(龍門山北側約7km)などは土質が比較的良好で陣地構築に有利に作用した。

第6師団正面の中共軍は第19兵団第63軍であった。第63軍は1951年2月に鴨緑江を渡って臨津江北に移動した後、4月攻勢時の雪馬里戦闘に参加し、以降は加平に移動して第6師団と対峙した。

1951年5月9日、中朝連合司令部は5月攻勢の最終計画を確定し、第19兵団は中東部戦線の主攻部隊に呼応して中西部戦線の国連軍を拘束、牽制する任務を与えられ、第63軍は龍門山一帯の第6師団を攻撃し、龍門山-清渓山間のノーネーム線を突破した後、広州-利川線に進出するよう命じられた。

第6師団の主抵抗線は可逸里の866高地で北漢江から約12~17km離れており、中共軍が北漢江を渡河して橋頭堡を確保した場合、第6師団だけでなく、隣接する第2師団第7師団も危機に直面することになる。このため第6師団は、第2連隊を洪川江南に配備し、主抵抗線である龍門山北西に第19連隊、北東に第7連隊を配備して防御陣地を構築した[2]。中共軍の攻勢が差し迫ると左側背の第2師団と右側背の第7師団は主抵抗線に撤収したため、第2連隊が突出する形となった[2]

第2連隊は、悲壮な覚悟で防御を準備し、第2大隊は北漢江を瞰制できる蔚業山に、第1大隊は洪川江を瞰制できる559高地に、第3大隊は蔚業山南側の353高地に防御陣地を構築した[3]


  1. ^ 破虜湖”. www.chosunonline.com. Chosun Online | 한국민족문화대백과사전(韩国民族百科全书). 2019年5月28日閲覧。
  2. ^ a b c 国防軍史研究所 2004, p. 217.
  3. ^ 軍史編纂研究所 2011, pp. 552–553.
  4. ^ 戦史編纂委員会 1973, p. 239.
  5. ^ a b c 国防軍史研究所 2004, p. 219.
  6. ^ a b 国防軍史研究所 2004, p. 221.
  7. ^ 国防軍史研究所 2004, p. 242.
  8. ^ a b 国防軍史研究所 2004, p. 243.
  9. ^ a b 国防軍史研究所 2004, p. 245.
  10. ^ 国防軍史研究所 2010, p. 74.
  11. ^ a b c 国防軍史研究所 2004, p. 246.


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