道教 歴史

道教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/27 06:46 UTC 版)

歴史

老子の誕生を描いた画

道教は後漢末頃に生まれ、魏晋南北朝時代を経て成熟し定型化し、隋唐から宋代にかけて隆盛の頂点に至った[3]。その長い歴史の中で、悪魔祓いや治病息災・占い姓名判断風水といった巫術や迷信と結びついて社会の下層に浸透し、農民蜂起を引き起こすこともあった[3]。一方で、社会の上層にも浸透し、道士皇帝個人の不老長生の欲求に奉仕したり、皇帝が道教の力を借りて支配を強めることもあった[3]。また、隠遁生活を送った知識人の精神の拠りどころとなる場合も多い[3]。こうした醸成された道教とその文化は現代にまで引き継がれ、さまざまな民間風俗を形成している[3]

現代、全世界に道教の信徒を自認する人は3000万人ほどおり、台湾東南アジア華僑華人の間で信仰されている[5]。また、中国のみならず中国文化の影響下にあった朝鮮半島・東南アジア・日本といった地域では、道教的な文化を多く受容している[6]。中国本国においては、五四運動日中戦争、また中国共産党の宗教禁止政策などで下火になったが、近年徐々に復興している[7]

教義

道教が幅広い内容を含むものであることは古くから指摘されており[2]、たとえば南朝梁劉勰が著した『滅惑論』では、道教の3つの要素たる「道教三品」として以下の三点を挙げている[4][8]

  • 上:老子 - 老子の無為や虚柔の思想
  • 次:神仙 - 神仙の術
  • 下:張陵 - 祭祀や上章(神々への上奏文を燃やす儀式)および符書(お札)の類

また、馬端臨が著した『文献通考』の「経籍考」では、道教の内容を五つ挙げている[4][8]

  • 清浄 - 老子・荘子・列子などの清浄無為の思想。
  • 煉養 - 内丹などの養生術。
  • 服食 - 仙薬を服用し不老長生を図ること(外丹)。
  • 符籙 - 符籙(おふだ)を用いた呪術
  • 経典科教 - 仏教に対抗して作られた経典や儀礼で、近世の道士が用いるもの。

これらの説を受けて、『四庫提要』の「道家類」の序文では、道家(道教)は老荘の「清浄自持」を根本とし、その後、神仙家・煉丹術・符籙・斎醮(亡魂を救済したり災厄を除去するために行う)・章呪(神々への上書文や呪術)などが加わっていったという説明がなされている[8]

以下、重要な要素ごとに説明を加える。

老子の「道」

水牛の上に乗った老子
馬王堆帛書の『老子』

老子は先秦時代の学者とされるが、その経歴については不明な点が多く、その思想を記した書である『老子道徳経』の成立時期もさまざまな説がある[9]。道教は中国古来の宗教的な諸観念をもとに長い期間を経て醸成されたもので、一人の教祖によって始められたものではないから、老子が道教の教祖であるとはいえない[9]

しかし、『老子』に説かれる「」の概念が道教思想の根本であることは確かである[9]。道教においては、不老長生を得て「道」と合一することが究極の理想として掲げられ、道徳の教理を記した書の冒頭には『老子』の「道」または「道徳」について説明がなされるのが通例である[9]

『老子』の冒頭には以下のようにある[10]

道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無し、天地の始めには。名有り、万物の母には。故に常に無欲にしてその妙(深遠な根源世界)を観て、常に有欲にしてその徼(明らかな現象世界)を観る。この両者は同じきより出でて名を異にし、同じくこれを玄(奥深い神秘)と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。 — 『老子』第一章

『老子』では、世間で普通に「道」と言われているような道は本当の道ではないとして否定し、目に見える現象世界を超えた根源世界、天地万物が現れた神秘の世界に目を向ける[10]。「道」は超越的で人間にはとらえがたいものだが、天地万物を生じるという偉大な働きをし、気という形で天地万物の中に普遍的に内在している[11]

老子』に見られる「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は、20世紀後半に発掘された馬王堆帛書郭店楚簡から推測すると、戦国時代後期には知られていたと考えられる[12]。「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、やがて老子の思想と同じ道家という学派で解釈されるようになった[13]。一方、『老子道徳経』の政治思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家と法家を交えた黄老思想が成立した。前漢時代まで大きく広まり実際の政治にも影響を与えたが[14]武帝が儒教を国教とすると民間に深く浸透するようになった。その過程で老荘思想的原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まっていった。そして老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になった[15]

道教においては、不老長生を得て「道」と合一することを理想とするが、その際には精神的な悟脱だけを問題とするのではなく、身体的な側面も極めて重視する[16]。そのため、形而上の「道」の具体的な発現である「気」もクローズアップされるようになった[16]

神仙道

健康で長生きしたいという人々の共通の願いが、永遠の生命を得るという超現実的なところまでふくらませたものが神仙という観念であり、道教では理念的には神仙になることを最終目標としている[17]。神仙は、東の海の遠くにある蓬萊山や西の果てにある崑崙山に棲み、不老不死などの能力を持っている[18]。また、戦国時代から漢代にかけては、神仙は羽の生えた人としてイメージされることが多く[17]、神仙は天へと飛翔する存在とされる[19]。神仙は、『荘子』においては「真人」「神人」「至人」などとも呼称される[20]

外丹

清代に出版された煉金術の書。

神仙への憧れは様々な伝説を生み、『列仙伝』や『神仙伝』といった仙人の伝承が生まれた[21]。仙人になるための修行理論や方法は葛洪の『抱朴子』に整理されている[22]葛洪は、人は学んで仙人になることができると主張し、そのための方法として行気(呼吸法)や導引、守一(身体の「一」を守り育てること)などを挙げる。葛洪が特に重視するのは「還丹」(硫化水素からなる鉱物を熟して作ったもの)と「金液」(金を液状にしたもの)の服用である[23]。このように、金石草木を調合して不老不死の薬物を錬成することを「外丹」(練丹術、金丹)と呼ぶ[24]。葛洪は、神仙になる方法を知りながらも経済的理由で必要な金属鉱物を入手できないため実践に至らないとも述べている[25]

実際には、水銀化合物を含む丹薬は毒薬であり、唐代には丹薬の服用による中毒で死に至った皇帝が何人も出た[26]。煉丹術の研究は丹砂や鉛といった鉱物に対する科学的知識を多く蓄積し、唐代の道士が煉丹の過程で事故を起こしたことがきっかけとなって火薬の発明に至った。また、道士は中毒死を防ぐために医学について研究したため、漢方医学の発展を促し、煉丹術の成果は医学に吸収されて外科の薬物として用いられている[27]

宋代以後は、金丹といった「外物」(自己の身体の外にある物質)の力を借りるのではなく、修練によって自己の体内に丹を作り出すという「内丹」の法が盛んになることとなり、外丹は下火になった[26]

内丹

内丹とは、人間の肉体そのものを一つの反応釜とし、体内の「気」を薬材とみなして、丹薬を体内に作り出そうとするもので、それによって不老長生が実現するとされた瞑想法・身体技法である[28]。呼吸法には「吐故納新」、瞑想法には五臓を意識して行う「化色五倉の術」、ほかにの歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などがある[29]。また、道教においては身体と精神は密接につながっていると考えられるため、感情を調和のとれた穏やかな状態に保つ精神的な修養も不老不死のために必要であるとされた[28]

唐代までは外丹が盛んであったが、宋代以後には不老長生法の主流は内丹に移り、『周易参同契』と張伯端の『悟真篇』が内丹の根本経典とされた[30]。『悟真篇』の内丹法は、「金丹」を体内で練成する段階と、それを体内に巡らせる「金液還丹」の段階に分かれている。前者の段階は、腎臓の部位に感じられる陽気の「真陽」と、心臓の部位に感じられる陰気の「真陰」を交合させると、丹田に金丹が生じるというもの。後者の段階は、体内の金丹を育成し、身体の精気を金液に変化させる。この時、金液は督脈と任脈のルートに沿って体内を還流し、十ヶ月続けると神仙になる[30]。ただし、これと同時に心性・精神の修養も必要であるとされ、これは「性命兼修」また「性命双修」と呼ばれのちの全真教で重視された[30]

羽化仙と尸解仙

以上のように、道教においてはさまざまな方法によって不老長生の仙人になることが目指されたが、現実には死は避けがたいものであった[31]。そこで、形の上では死ぬという手続きを経た上で、のちに仙人になるという考え方が生まれ、これを「尸解」という[31]尸解仙の伝説にはさまざまなものがあり、死んだ人が生き返った、棺の中の遺体が消えて服だけになっていた、遺体がセミの抜け殻のように皮だけになっていたといった逸話が語られた[31]。また、丹薬によって中毒死した場合も、それは本当の死ではなく、尸解仙になったものと考えられた[27]

宇宙論

道教における神

四川省都江堰市の二王廟内殿。道観の一例。

道教は多神教であり、中心となる神としては当初は老子を神格化した「老君」や「太上老君」がおり、6世紀ごろからは宇宙の「道」を神格化した「元始天尊」や「太上道君」、13世紀ごろからは黄帝の変身である「玉皇大帝」や「呂祖」がいる[1]。ほかにも、かまどの神や媽祖(海上の守護神)など無数と言えるほどに多くの神が存在する[1]

道教には、人々が自力で仙界に到達し、苦しみから救済されるという自己救済の形式のほか、人々の苦しみを救う神格も存在している[32]。特に六朝時代中期以降は、仏教の大乗思想を道教が受容し、冥界の死者をも含めたすべての存在を救済するという考え方が取り込まれ、様々な斎法儀礼が整えられた[32]。たとえば「元始天尊」は、宇宙の原初の気を受け、天地の崩壊を超越して不変とされる存在で、「劫」のサイクルごとに救済を行うとされた[33]

天界説

道教において、天の世界は神々の住む場所であり、人も程度に応じて到達可能な理想の境地であるとされた[34]。しかし、具体的な天界説は道教経典においてさまざまな形で現れ、統一されていない。唐代初期の頃に一応の完成された天界説として定着したのが「三十六天説」である[34]。『道門経法相承次序』は以下のように述べている。

天界は三十六の天が積み重なった構造をしている。三界のうちにある二十八天と、その上にある八天に分かれる。三界二十八天のうち、一番下の六天は欲界、次の十八天は色界、次の四天は無色界である。三界二十八天に住む者たちは、寿命は長く、美しい宝玉に囲まれているが、生死を免れない。無色界の上には四天があり、種民天という名前で、そこには生死はなく、災害も及ばない。その上には三境(太清境・上清境・玉清境)があり、これは三天(大赤天・禹余天・清微天)または三清天ともいう。…三境の上、すなわち三十六天の最上部には大羅天がいて、過去・現在・未来の三世の天尊がそこにいる。天尊は三十六天すべてを統括している。 — 『道門経法相承次序』巻上

三十六天説は、仏教の三界二十八天説を下層部に取り込んでおり、仏教の天界の上に道教独自の天を置くことによって仏教よりも優位であることを示した[34]。また、神仙は細かくランク分けされ、それぞれの位階に応じて住む場所が決まっており、三境には九仙・九真・九聖の二十七の位があり、それぞれの位の仙人・真人・聖人が住むとされた[35]

地上の仙人

天界は神仙の住む場所とされたが、地上にも神仙の住む場所はあるとされ、古くは蓬萊山崑崙山がその場所であるとされた[36]。地仙(地上で暮らす仙人)の別天地として徐々に整理されたのが「洞天」の世界で、六朝時代中期ごろから、天と同様に三十六の洞天があるという観念が生まれた[36]。『真誥』では洞天の一つとして茅山にあるとされる「華陽洞天」について記載されており、その洞窟の中は特殊な光によって外界と同じように明るく、草木・水沢・飛鳥・風雲など外界と同じ自然が広がっている。宮殿や役所があって多くの地仙が仙官(仙人世界の官僚)となり、全体が上位の神仙の統轄のもとにある[36]

鬼の世界

「鬼」とは死者の霊魂や天地山川の精霊のことである。不老不死を理想に掲げる道教としては、鬼は理想を達成できなかった存在ということになるが、実際には誰もが死からは逃れられず、実際には道教と鬼の観念は深いかかわりを持っていた[37]

もともと前漢末頃には、死者の霊魂は泰山に集まるという観念があった。泰山には冥府(冥界の役所)があり、地上と同じような官僚組織が存在し、泰山府君(冥府の長官)が冥吏とともに一般の鬼を支配すると考えられていた[37]。中国に仏教が流入すると、地獄の観念と結びつき、人は死後に泰山地獄に入って泰山府君による裁きを受け、冥界での処遇が決まると考えられるようになった[37]。道教の鬼の考え方もこういった背景のもとに現れており、『真誥』では、死者が第一から第六まで存在する天宮に赴き、鬼界での処遇を決められることが描かれている[37]

『真誥』においては、世界が仙界・人界・鬼界の三部からなることと、それぞれの世界に住む者は固定しておらず行為の善悪によって上に昇ったり下に降ったり循環往来することが説かれている[38]。人界から仙界への移動のためには、服気・存思などの道術や、経典の読誦、按摩・理髪・導引などの健康法などが必要とされる[38]。一方、鬼界から仙界・人界に移ることができる者は、地下主者・地下鬼者と呼ばれる、鬼と仙との中間的な存在である。地下主者となることができるのは、生前に忠孝や貞廉であったり陰徳があった人で、死後長い年月を経て仙人になれるとされている[38]。このようにして、現世において仙人になることができなかったものでも、死後に仙人になることがありうるとされ、仙界への道がより広く開かれることとなった[38]

日常倫理

道教においては、地上の人間の行為を天の神が見ていて、行為の善悪に従ってその応報として禍福がもたらされるという観念があり、そこから日常で守るべき倫理が説かれることとなる[39]。人の行為に天が賞罰を与えるという考え方は『墨子』や董仲舒の災異説など中国に古くから存在し、道教関連では『抱朴子』のほか、『太平経』や『霊宝経』などに見えている。『霊宝経』には日常において守るべき倫理として「十戒」が挙げられており、これは仏教の「戒」の影響を受けつつ、中国の日常倫理と融合したようなものになっている[40]

一には、殺さず、まさに衆生を念ずべし。二には、人の婦女を淫犯せず。三には、義にあらざるの財を盗み取らず。四には、欺いて善悪正反対の議論をせず。五には、酔わず、常に浄行を思う。六には、宗親和睦し、親を謗ることをせず。七には、人の善事を見れば、自分も同じように歓喜する。八には、人の憂いあるを見れば、助けてそのために福をなす。九には、相手の方から私に危害を加えても、志は報いざるにあり。十には、一切未だ道を得ざれば、我は望みを有せず[40] — 『太上洞玄霊宝智慧定志通微経』

その後、宋代以後に民衆の間で流行した「善書」や、行為の善悪を点数化する「功過格」によって日常倫理が説かれることとなった[39]

善書

善書は一般民衆を教化する通俗的な民衆道徳書であり、下層知識人や庶民に向けて書かれていた[41]。道教系・仏教系のものがあり、無料で頒布された(無料で頒布するという行為自体が善行であるともされた)。道教的な善書の源流は南宋にあるが、明末になって三教合一の風潮が強くなると特に流行した[41]。善書の誕生の背景には、一般民衆が主体的な行動によって自身の禍福を定められるという観念があり、これは宋代以降の庶民の社会的地位の向上を反映していると考えられる[42]

道教的な善書の最初の例が南宋の『太上感応篇』で、太上老君に授けられた言葉として12世紀中ごろから流行するようになった。13世紀の理宗は、この本の出版流通を積極的に行った[43]。ここには、身近な日常倫理が具体例とともに平易に説かれており、その内容は儒教・仏教・道教の枠を超えて全ての人々に通用するものであった[44]。この書は、勧善懲悪の書として人々を教化する書として長い間中国社会において大きな役割を果たした[44]

功過格

同じく宋代以降に流行した「功過格」は、行為の善悪を点数によって示し、その数値によって自分の行いを反省し、道徳実践に向かうように勧めた書の総称である[45]。現在伝わる最古の功過格は1171年に浄明道の道士によって伝えられたとされる『太微仙君功過格』であるが、当初は道士や信徒を対象に規律を具体化した道教教団的な色彩が濃いものであった[46]。明末になると、より庶民に開かれた日常的行為の規範として簡潔な功過格が生まれた[46]。たとえば、「重病人を一人救うと10ポイント」「人の財物を盗んだ場合は百銭でマイナス1ポイント」というように細かに点数が定められており、人々は寝る前に「簿籍」(功過簿)にその点数を正直に記入し、自分の功過の総数を知り、自身の道徳的行為を省察した[45]

善書・功過格を実践した人物として著名なのが袁了凡で、彼は当初は人間の運命は定められているという宿命論的思考を持っていたが、功過格を授けられ、自分の意思と善行によって運命を改変することができるという立命論(造命論)の立場に転じた[47]。彼は功過格を実践して願いを成就して進士に至り、民衆に善書を広め、下級知識人層に影響を与えた[47]

儀式・呪術

霊符・符籙

中国には何らかの霊的な能力が宿るとされる「符」(おふだ、霊符)が古くから用いられ、天災・人災を防ぐほか、邪悪・病魔を退散させる呪術の一種として普及した[48]。古くは、睡虎地秦簡・日書に符の存在を暗示する「禹符」の文字があるほか、馬王堆帛書・五十二病方にも符を使う記述が見られる。後漢の洛陽郊外の邙山漢墓からは、延光元年(122年)と年代が判明している最古の符が発見された[49]。道教においても古くから符・霊符が用いられ、その結びつきは強く、符籙といった呪術に対抗して生まれた全真教でさえ後になると符を用いていた[50]

符は、道士によって書写され、紙や布の上に篆書隷書の文字が書かれたり、文字ではない屈曲した図柄や星・雷の図形などが書かれた[51]。道教経典によれば、太上老君が東方に発する気の形状や、蛇のようにうねる山岳や川の様子を天空から見て描写したとされる[52]。こうして書かれた符は、宇宙の生成化育・変化流転を表し、神秘の力と共鳴して不可思議な力を発揮するとされた[53]

天師道の家では、7歳から16歳までに道術を学び、道術を会得すれば「符籙」が授けられるとされた[54]。「籙」とは、名簿・記録のことで、天官や神仙の名籙と道士の名冊(登真籙)の二種がある[54]。登真籙には、道士の姓名や道号などが記され、儀式を挙行して霊的に道士の名前が登記され、これによって道士として認められて天神の加護を得ることができた[54]。したがって、道士によって籙は神に授かった非常に重要なものであり、その授受の儀式は荘厳なものであった。籙は霊符とともに用いられることも多いため、「符籙」とも呼ばれる[54]

伝度儀礼

伝度とは、道教教団への加入式であり、道士になるための儀式である[55]。基本的には、戒律を受けることや、天師の牒籙を受けることによって道士となる。道士の階級は細かく区分されており、籙・戒をどれほど受けたかによって差が設けられている[56]。正一教の場合、子供は七歳で最初の宗教的位階を受けて「更令」と呼ばれ、数年の間隔を置いて最初の籙である「童子一将軍籙、三将軍籙、十将軍籙」を受け、思春期の頃に「七十五将軍籙」を受け、「籙生」となる。籙を伝授されるということは、受けたものがその籙の神々を盟約関係を結ぶということである[57]。叙階の前夜には儀式の開催を告げる「上章」を行い、集まった神々に位階を授ける弟子を知ってもらい、翌朝に「度籙」の儀礼が行われる[57]

ただ、一度籙を受ければ一生神々との関係が持続するわけではなく、その籙に関係する神々と定期的に盟約を行進する必要があった。祈祷によって呼び出された神々は、「閲籙」の儀式によって道士に検閲をかけ、その後に供物を受ける「醮籙」の儀式が行われた[57]。これらの儀式によって得られた法位は、非常に官僚的なシステムによって統制されており、伝授による位階が細かく定められていた[58]

斎醮儀礼

斎と醮はもともとは別系統の儀礼であったが、のちに一連の儀式として行われるようになった。斎醮は、死者を救済する死者儀礼と、人々の生活における危険を排除し平安を祈る祈安儀礼の二つの系統がある[55]

死者救済儀礼として成功したのが黄籙斎である。これは斎主の依頼によって道士が行う儀礼である。道士は本来は修行によって自らが仙人となることを目指す修行者であるが、そうした道士が他者である斎主の依頼によって、罪の懺悔を主とする儀礼を行い、その功徳を使者に振り向ける。道士にとってはこれが他者のためのための利他行であり、こうした儀式を行うことそのものが一種の修行となる[59]。また、これとは別に在家信者の間では『度人経』の読誦による死者儀礼も行われていたと考えられる。『度人経』は霊宝経の代表であり、世界の普遍的な救済を説き、この経を読誦すれば仙人になれる、またた人の寿命を延ばし人を災厄から救うとされた[60]

一方、生者の救済のために行われるのが祈安儀礼であり、金籙斎がその代表である[61]。祈安の対象はさまざまで、災厄を起こす星を占いで特定してその送星に対する儀式を行う例や、一種の地鎮祭を行う例、生前に予め黄籙斎を行い一定の符を与えておく儀式、疾病に対して神に謝罪する儀式などがある[61]。こうした儀式においては、灯儀(神灯を関祝する儀式)と醮儀(酒を神に献上する儀式)が多く見られる[62]


  1. ^ a b c d e 福井 1984, p. 327.
  2. ^ a b c 神塚 2020, p. 6.
  3. ^ a b c d e f 金 1995, pp. 146–149.
  4. ^ a b c 横手 2008, pp. 1–8.
  5. ^ P.R.ハーツ 2005, p. 12.
  6. ^ P.R.ハーツ 2005, p. 13.
  7. ^ P.R.ハーツ 2005, pp. 146–152.
  8. ^ a b c 神塚 2020, pp. 7–8.
  9. ^ a b c d 神塚 2020, p. 28.
  10. ^ a b 神塚 2020, pp. 32–33.
  11. ^ 神塚 2020, pp. 34–36.
  12. ^ 横手 2008, pp. 9–12.
  13. ^ 横手 2008, pp. 9–11.
  14. ^ 横手 2008, pp. 12–16.
  15. ^ 横手 2008, pp. 26–28.
  16. ^ a b 神塚 2020, p. 45.
  17. ^ a b 神塚 2020, p. 54.
  18. ^ a b c 横手 2008, pp. 16–19.
  19. ^ 坂出 2005, p. 38.
  20. ^ 神塚 2020, p. 53.
  21. ^ 神塚 2020, pp. 54–55.
  22. ^ 神塚 2020, p. 13.
  23. ^ 神塚 2020, pp. 64–66.
  24. ^ 神塚 2020, p. 117.
  25. ^ 横手 2008, pp. 35–39.
  26. ^ a b 神塚 2020, p. 66.
  27. ^ a b 金 1995, pp. 88–93.
  28. ^ a b 神塚 2020, pp. 108–110.
  29. ^ 横手 2008, pp. 20–22.
  30. ^ a b c 神塚 2020, pp. 120–122.
  31. ^ a b c 大形 1984b, p. 162.
  32. ^ a b 神塚 2020, pp. 86–88.
  33. ^ 神塚 2020, pp. 100–102.
  34. ^ a b c 神塚 2020, pp. 73–76.
  35. ^ 神塚 2020, p. 76.
  36. ^ a b c 神塚 2020, pp. 76–79.
  37. ^ a b c d 神塚 2020, pp. 79–81.
  38. ^ a b c d 神塚 2020, pp. 81–83.
  39. ^ a b 神塚 2020, pp. 130–138.
  40. ^ a b 神塚 2020, pp. 138–139.
  41. ^ a b 加治 2001, pp. 12–13.
  42. ^ 酒井 1984, pp. 257–258.
  43. ^ 加治 2001, p. 15.
  44. ^ a b 神塚 2020, pp. 141–142.
  45. ^ a b 神塚 2020, pp. 142–143.
  46. ^ a b 加治 2001, pp. 19–20.
  47. ^ a b 加治 2001, pp. 22–23.
  48. ^ 大宮 2002, p. 1.
  49. ^ 横手 2008, pp. 22–25.
  50. ^ 大宮 2002, p. 12.
  51. ^ 大宮 2002, p. 13.
  52. ^ 大宮 2002, p. 14.
  53. ^ 大宮 2002, p. 15.
  54. ^ a b c d 大宮 2002, pp. 29–30.
  55. ^ a b 田中 2000, p. 284.
  56. ^ 田中 2000, pp. 280–290.
  57. ^ a b c 田中 2000, pp. 294–295.
  58. ^ 田中 2000, p. 296.
  59. ^ 浅野 2000, pp. 300–301.
  60. ^ 浅野 2000, p. 302.
  61. ^ a b 浅野 2000, pp. 314–317.
  62. ^ 浅野 2000, pp. 318–319.
  63. ^ a b 神塚 2020, pp. 50–51.
  64. ^ a b 神塚 2020, p. 52.
  65. ^ a b c 坂内 1994, p. 206.
  66. ^ 松村 1994, p. 220.
  67. ^ 松村 1994, p. 221.
  68. ^ a b 小林 1994, pp. 214–215.
  69. ^ 坂出 2005, pp. 68–69.
  70. ^ a b 坂出 2005, pp. 73–74.
  71. ^ a b 坂出 2005, pp. 180–183.
  72. ^ a b 林 1994, pp. 182–189.
  73. ^ a b c d デスプ 1996, pp. 23–26.
  74. ^ デスプ 1996, pp. 31–32.
  75. ^ デスプ 1996, pp. 36–37.
  76. ^ a b c d e f 坂出 2005, pp. 64–66.
  77. ^ デスプ 1996, p. 32.
  78. ^ デスプ 1996, p. 26.
  79. ^ 坂出 2005, pp. 60–62.
  80. ^ a b 猪飼 1994, pp. 224–226.
  81. ^ a b c d e 神塚 2020, p. 178.
  82. ^ 神塚 2020, pp. 178–181.
  83. ^ 神塚 2020, pp. 185–188.
  84. ^ a b 二階堂 2000, pp. 152–154.
  85. ^ a b c 有澤 2000, pp. 213–214.
  86. ^ a b 有澤 2000, pp. 221–224.
  87. ^ a b c 杉原 2000, pp. 251–255.
  88. ^ P.R.ハーツ 2002, pp. 134–139.
  89. ^ 杉原 2000, pp. 257–258.
  90. ^ 吉川 1987, p. 7.
  91. ^ 吉川 1987, pp. 187–196.
  92. ^ 吉川 1987, p. 8-10.
  93. ^ 吉川 1987, pp. 143–161.
  94. ^ 吉川 1987, pp. 19–21.
  95. ^ 奈良 2000, pp. 230–232.
  96. ^ 奈良 2000, pp. 232–234.
  97. ^ 奈良 2000, pp. 235–238.
  98. ^ 奈良 2000, pp. 238–246.
  99. ^ a b c d e f g 大形 1984b, pp. 157–158.
  100. ^ a b c d e 横手 2008, pp. 32–35.
  101. ^ 横手 2008, pp. 40–45.
  102. ^ 神塚 2020, pp. 172–173.
  103. ^ a b 神塚 2020, pp. 154–160.
  104. ^ a b 神塚 2020, pp. 160–162.
  105. ^ 神塚 2020, pp. 162–164.
  106. ^ a b 神塚 2020, pp. 164–167.
  107. ^ 神塚 2020, pp. 172–176.
  108. ^ a b P.R.ハーツ 2005, pp. 153–154.
  109. ^ a b 坂出 2005, pp. 20–22.
  110. ^ 鄭 2001, pp. 206–207.
  111. ^ a b 鄭 2001, pp. 208–211.
  112. ^ a b 都築 2001, pp. 152–153.
  113. ^ 都築 2001, p. 157.
  114. ^ a b 神塚 2020, pp. 198–199.
  115. ^ a b 千田 1989, p. 8.
  116. ^ 神塚 2020, pp. 199–200.
  117. ^ 神塚 2020, pp. 201–202.
  118. ^ 千田 1989, p. 17.
  119. ^ a b c 神塚 2020, pp. 207–210.
  120. ^ 福永 1989, pp. 20–29.
  121. ^ a b 前田 1989, pp. 103–110.
  122. ^ 神塚 2020, pp. 204–207.






道教と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「道教」の関連用語

道教のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



道教のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの道教 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2023 GRAS Group, Inc.RSS