米山文子
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来歴
東京市麹町区出身[1]。1922年、東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)卒。東京市内の小学校の教諭を務め、のち、米山八弥と結婚する。東京都内の国民学校に勤務中の1944年に山形県の赤湯温泉に疎開、家族もそこに疎開した。翌1945年に敗戦直前に退職、夫が結成した政治団体「中道会」に参加し、婦人部長となった。翌1946年の第22回衆議院議員総選挙に立候補して当選。次の年の第23回衆議院議員総選挙では民主党から立候補したが落選した。1998年死去。
参考文献
- 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年11月。
- 岩尾光代著『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』(日本放送出版協会、1999年)ISBN 4140804394
- ^ 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』714頁には「長野県出身」と記載。
- 1 米山文子とは
- 2 米山文子の概要
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