浄光院 (保科正之生母) 浄光院 (保科正之生母)の概要

浄光院 (保科正之生母)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 01:13 UTC 版)

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人物

慶長年間に秀忠の乳母・大姥局に仕える。その際、秀忠に見初められる。その後に懐妊したが側室に迎えられることなく、見性院武田信玄次女、穴山梅雪未亡人)の元に預けられる。そこで慶長16年(1611年)に幸松(後の正之)を生む。元和3年(1617年)、幸松が名目上保科正光の子とされたため、静もそれに伴って信濃高遠城に住むようになる。

寛永12年(1635年)、同地にて52歳で病死した。一旦長遠寺(長野県伊那市)に葬られ、正之が会津藩主となった後は浄光寺(福島県会津若松市)に改葬されるが、静自身は日蓮宗を信仰していたため、正之の手で身延山久遠寺(山梨県身延町)にさらに改葬される。戒名は「淨光院殿法紹日惠大姉」であるが、久遠寺の碑名には「淨光院法紹日惠靈」とある。なお、同碑銘には「孝子會津從四位上左近衞權少將源朝臣正之奉祀」と刻されている。

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