楊溥 (十国呉) 生涯

楊溥 (十国呉)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/18 00:37 UTC 版)

生涯

兄の高祖(楊隆演)が国王になった時に楊溥は丹陽郡公に封ぜられた。

武義2年(920年)、高祖が死去すると楊溥は徐温に次の「国王」に迎えられた。順義7年(927年)、楊溥はの国王に即位した。

しかし、この時の「」は、全ての実権を徐温・徐知誥父子に握られており、高祖と楊溥は実際は傀儡の王だった。

その間、徐氏父子による国の簒奪の準備が密かに進められていた。

天祚3年(937年)、楊溥は李昪(徐知誥)に帝位を禅譲し、ここに「」は滅亡した。

翌年に楊溥は死去し、睿皇帝とされた。

その後の楊氏

十国春秋』巻3によれば、南唐建国後、の宗族達は泰州に設けた「永寧宮」に軟禁された。

厳重な警備に、軟禁された楊氏の宗族は婚姻もままならず、宗族の男女同士で慰め合ったという。

後周の世宗(柴栄)が淮南に遠征し、楊氏一族を招こうとすると、南唐の2代皇帝の元宗(李璟)は園苑史の尹廷範を遣わして、楊氏一族を京口に迎えようとした。

ところが尹廷範が独断で楊溥の弟2人を含む男子60人以上を殺害、女子だけを連れて戻った。その所行に李璟は激怒して尹廷範は腰斬にされた。こうして楊氏は滅亡した。

家族

妻妾

  • 王皇后

男子

  • 弘農王 楊璉
  • 江夏王 楊璘
  • 宜春王 楊璆

女子

  • 上饒公主(南唐の元宗李璟の弟の李景遷の妻)

関連項目

先代
高祖
呉 (十国) の第4代王/皇帝
920年 - 937年
次代
滅亡



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