本妙寺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 06:05 UTC 版)
検挙者処分
送致先 | 日付 | 男 | 女 | 未感児 | 計 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
愛生園 | 7月9日 | 13 | 10 | 3 | 26 | |
敬愛園 | 7月10日 | 12 | 9 | 10 | 31 | |
光明園 | 7月12日 | 21 | 19 | 4 | 44 | |
楽泉園 | 7月14日 | 17 | 10 | 9 | 36 | 一部特別病室に入室 |
九州療養所 | 7月14日 | 2 | 5 | 1 | 8 | 重症および輸送不能 |
非らい送還 | - | 6 | 5 | 0 | 11 | |
引き渡し | 7月14日 | - | - | 1 | 1 | 親の希望により実兄に |
計 | - | 71 | 58 | 27 | 157 |
強制収容のその後
身柄は一応トラックにて九州療養所に運び、構内にある警察留置場と監禁室に収容した。その後本省の指示に従い、別の療養所に医師が付き添って送致した(表参照)。熊本県と市当局の協力の下、遺家族の救護、跡地の浄化(患者の家屋は買収の上、焼却、消毒は熊本薬学専門学校学生がおこなった)、豚、鶏等生物は売却し、持ち主に送り届け、禍根を残さないように努力した。これらはらい予防協会でおこなった。当時の会長は山田俊介熊本県警察部長。[6]その後、昭和18年4月には、本妙寺参道には別の患者が並んだ。戦争直後も同様であったが、いつしか並ばないようになった。
文献
- 『菊池恵楓園50年史』国立療養所菊池恵楓園、合志、1960年、71-84頁。
- 『壁をこえて——自治会八十年の軌跡』菊池恵楓園入所者自治会、合志、2006年、78-81頁。ISBN 4877552324。
- 潮谷総一郎 (1952), “本妙寺癩窟”, 日本談義 (日本談義社) 23
関連項目
- ^ 潮谷総一郎 1952.
- ^ 福田令寿 『百年史の証言』 熊本日日新聞社 1971 p369
- ^ 壁をこえて 2006, p. 78.
- ^ 菊池恵楓園50年史 1960, p. 81.
- ^ 菊池恵楓園50年史 1960, p. 82.
- ^ 菊池恵楓園50年史 p84
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