春光院 (島津重豪側室)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 22:47 UTC 版)
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当初は島津継豊後室の浄岸院付の上臈だったといわれている(『島津重豪』ISBN 4642051376[要ページ番号])。浄岸院死後、重豪の寵愛を受け、長男・斉宣、三男(名前不詳)、五女・克を生む。安永5年1月22日(1776年3月11日)に薩摩国に下向、寛政元年(1789年)8月に呼称を「お千万様」から「御内証様」に改められる(『島津家列朝制度』巻之二十七-一六七八、一七三二)。文化4年(1807年)8月、重豪の命により江戸に出府。文化8年(1811年)に江戸高輪の薩摩藩邸にて死去。享年65。法号「春光院心月清涼大姉」、墓所は大円寺、後に福昌寺に改葬。
関連項目
- 1 春光院 (島津重豪側室)とは
- 2 春光院 (島津重豪側室)の概要
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