明臨答夫 明臨答夫の概要

明臨答夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/20 08:36 UTC 版)

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明臨答夫
各種表記
ハングル 명림답부
漢字 明臨答夫
発音 ミョンニム・ダプ
英語 Myeongnim Dapbu
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172年後漢の大兵による進撃を受けた際に、迎撃・籠城のいずれとするかという新大王の群臣への問いかけに対し、籠城と退却時の追撃を主張して新大王に受け容れられた。そして主張した通り、城を固守し、飢えて退却した漢兵を追撃して坐原で殲滅させた。この功により、坐原・質山を食邑として賜った。

179年9月、113歳で死去した。このとき新大王は明臨答夫の死を悼んで自ら出向いて嘆き悲しみ、7日間政務を執らなかった。礼をもって質山に葬られ、墓守として20戸が置かれた。

参考文献


  1. ^ 『三国史記』新大王本紀2年条の明臨答夫への昇進記事に続けて、「改左右輔爲國相始於此」と記されている。左輔・右輔は、大武神王代に始まる最高位の官爵。


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