斉 (南朝)
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歴史
建国期
建国者の蕭道成は前漢の高祖劉邦を支えた功臣蕭何の子孫を称した。少なくともこの時代には高い家柄ではなく、南朝宋の下級兵士から徐々に出世して北魏戦線で軍閥化して実力者となった[1][2]。南朝宋の明帝の時代に実力をつけ始めた蕭道成は、明帝の死後に発生した皇族の江州刺史で桂陽王劉休範や荊州刺史沈攸之らの反乱を平定した[1]。一方で皇帝劉昱は残忍で蕭道成の実力を恐れて排除を図ったため、477年に蕭道成は劉昱を殺し、その弟の順帝を擁立した。こうして皇帝の廃立を決めるまでになった蕭道成は、479年に順帝から禅譲を受けて南朝斉を開いた。
短命王朝の興亡
蕭道成は質素倹約を基本とし、学問の発展にも努めて国勢を安定させた。だが蕭道成は在位3年で482年に死去した。長男の第2代皇帝武帝は、南朝宋の末期からの荒れた政治を改革するために全国的な検地を行い、国力を上昇させたが、一方で税は過酷であり、国内では唐寓之の反乱が起きた。493年に武帝が崩御すると、その長男の息子すなわち孫の廃帝鬱林王・廃帝海陵王が相次いで擁立されて両帝共に494年に殺害される異常事態になった。その次に即位した武帝の従弟の明帝は悪名高い皇帝で、皇族の諸王、蕭道成や武帝の子孫20余人を次々と殺戮して恐怖政治を敷き、皇族の権力をいっそう弱体化させた[3][4]。
498年に明帝が崩御すると、跡を継いだ次男の廃帝東昏侯も残虐な皇帝として知られ、世に「悪童天子」「殺戮王」と言われて悪逆の限りを尽くした[2][4]。東昏侯は皇族のみならず官僚、民衆を虐殺して、宮廷では過剰な奢侈をしたために政治は大きく乱れた。この犠牲者の中には南朝斉の皇族で蕭道成の族弟にあたる蕭順之の子の蕭懿も含まれており、兄を殺された事に激怒した蕭懿の弟の蕭衍は、501年に荊州襄陽において藩鎮や豪族・土豪を結集して挙兵し、建康に進撃して東昏侯や側近を粛清した[2][4][5]。
蕭衍は東昏侯の弟の和帝を擁立するが、502年に和帝から禅譲を受けて南朝梁を建国し、南朝斉は滅亡した[2]。和帝は同年の内に殺害されている。
なお、明帝の子の蕭宝寅は斉が梁によって滅ぼされると北魏に亡命したが、527年には北魏に反乱を起こして自立、一時的ではあるが斉の皇帝を称している。
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