妙見嶽城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 05:18 UTC 版)
参考文献
- ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史7 大友宗麟篇II 宗麟の改宗と島津侵攻』中央公論社〈中公文庫〉、2000年。ISBN 4-12-203586-4
- ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史8 大友宗麟篇III 宗麟の死と嫡子吉統の背教』中央公論社〈中公文庫〉、2000年。ISBN 4-12-203587-2
- ^ 「方分」とは大友氏の行政機構の一つで、その地方における内政全般を管轄する役職のことである。他に有名なところでは、筑前国方分であった立花道雪が知られる。
- ^ ただし豊前国内でも多くの国人は島津方に寝返っており、宇佐郡内でも最後まで大友方として行動したのは妙見嶽城にもっとも近い領地をもつ佐田氏くらいである。また、すでに豊臣秀吉による九州征伐が始まっており、妙見嶽城以北の豊前諸城はすでに豊臣勢によって制圧され、先駆けとして黒田如水が宇佐郡時枝城に入っていた。
- ^ この時点で大友方に残っていた拠点は大友宗麟の籠もる臼杵城、志賀親次がゲリラ戦を展開していた岡城、同様に佐伯惟定がゲリラ戦を展開していた栂牟礼城、玖珠郡衆が抵抗を続けていた角牟礼城くらいであった。
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