十朱幸代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 04:59 UTC 版)
略歴
父・十朱久雄は日本橋で江戸時代から続く、麻問屋「小倉貿易」の長男だったが[2]、学生時代から芝居に熱中し、家業を継ぐ気が全くなかったことから、祖父が東京を離れれば芝居を辞めるだろうと、母との結婚を契機に自社の機械工場があった奈良県へ送り出した[2]。父が江戸っ子であることに誇りを持っていたため、母をわざわざ東京に送り返し、十朱幸代を東京の病院で出産させた[2]。十朱久雄の三人兄妹の長子として生まれる[1]。本籍は日本橋小網町一丁目[2]。8歳まで近鉄奈良線の大和西大寺駅前の家で育った[2]。西大寺の境内が遊び場だったという[2]。父の演劇熱はいっこうに収まらず、その後家族を引き連れて東京に戻る[2]。母も芝居好きで十朱幸代も幼い頃から芝居や映画に親しみ、「大きくなったら絶対に女優になる!」と公言していたという[2]。中学生でモデルを始め、父親について見学に訪れたNHKでスカウトされる[3]。1958年、NHK『バス通り裏』でデビュー[4]。翌年、映画『惜春鳥』で映画デビュー[5]。
1971年の銀河ドラマ『ゼロの焦点』で日本放送作家協会女性演技賞受賞[4]。1984年~96年にかけて、日本アカデミー賞優秀主演女優賞など5回にわたって受賞した[1]。
1976年、第2回菊田一夫演劇賞を受賞[6]。1980年、『震える舌』でブルーリボン主演女優賞受賞[4][5]、1985年、『花いちもんめ』で再び同賞を受賞する[4]。1987年、毎日映画コンクール女優主演賞受賞[7]。1989年、田中絹代賞受賞[8]、日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を受賞[9]。
2002年、第27回菊田一夫演劇大賞[10]。2003年、紫綬褒章受章[10]。2004年、第15回日本ジュエリーベストドレッサー賞(60代)受賞[10]。2005年、第26回松尾芸能賞大賞受賞[10]。
注釈
出典
- ^ a b c “十朱幸代さん「恋愛は大切。人生でいちばん素敵な感情だと思います」”. telling,. 2022年1月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 十朱 2018, pp. 16–19.
- ^ a b c “十朱幸代が今だから明かす、大スターとの恋。40代からの仕事と恋の叶え方 | インタビュー 人生、おしゃれ、そしてこれから | mi-mollet(ミモレ) | 明日の私へ、小さな一歩!(1/2)”. mi-mollet(ミモレ). 2022年1月9日閲覧。
- ^ a b c d NHK. “十朱幸代|NHK人物録”. NHK人物録 | NHKアーカイブス. 2022年1月9日閲覧。
- ^ a b “十朱幸代|『男はつらいよ』第14作 マドンナ”. 『男はつらいよ』公式サイト | 松竹株式会社. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “菊田一夫演劇賞(第10回~第1回) -映画演劇文化協会”. www.eibunkyo.jp. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “毎日映画コンクール 第42回(1987年)”. 毎日新聞. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “田中絹代賞について”. kinuyo-bunka.jp. 下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館. 2022年1月9日閲覧。
- ^ “十朱幸代74歳、その若々しさに改めて驚かされた - 芸能 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2022年1月9日閲覧。
- ^ a b c d “十朱 幸代”. actors7 公式ホームページ. 2013年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月9日閲覧。
- ^ “女優としてやっていく…十朱幸代明かす「『結婚した』ってことにした」理由 - スポニチ Sponichi Annex 芸能”. スポニチ Sponichi Annex. 2021年8月23日閲覧。
- ^ “十朱幸代 「もう立てないかもしれない」両足を手術し車椅子だったことを告白”. ライブドアニュース. 2021年1月6日閲覧。
- ^ NHKアーカイブス「バス通り裏」参照。ネット上でも確認できる。
- ^ NHKアーカイブス「おねえさんといっしょ」参照。ネット上でも確認できる。
- ^ 日本放送協会放送文化研究所放送情報調査部『NHK年鑑'90』日本放送出版協会、1990年、142頁。
- ^ 『東京ガス 暮らしとデザインの40年 1955→1994』1996年2月1日発行、株式会社アーバン・コミュニケーションズ。128頁~131頁
固有名詞の分類
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