北京機関
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日本に残された臨時中央指導部
1952年6月7日、党統制委員会がその責任において「来るべき党大会まで暫定的な中央指導部をつくる必要をみとめ」その構成員を指名した。公表されたところによると、椎野悦朗(議長)、輪田一造、杉本文雄、多田留治(8月7日に党内分派として除名)、鈴木市蔵、聴濤克巳(即日「アカハタ」編集関係者として公職追放)、河田賢治、谷口善太郎(のち6月28日の新聞記者会見談話の内容を理由に公職追放)の8名であった[19]。
他に、所感派で日本国内に残留した幹部として、志田重男らがいる。
参考文献
- 伊藤律『伊藤律回想録―北京幽閉二七年』文藝春秋社、1993年
- 伊藤律書簡集刊行委員会(編)『生還者の証言 伊藤律書簡集』五月書房、1999年
- 日本共産党中央委員会『日本共産党の七十年』全3冊新日本出版社、1994年、ISBN 978-4406022576
- 日本共産党中央委員会『日本共産党の八十年―1922~2002』日本共産党中央委員会出版局、2003年、ISBN 978-4530043935
- 藤井冠次『遠い稲妻 伊藤律事件』驢馬出版、1986年
- 「日共の革命教育はこうして行われた 元学生が語る北京『馬列学院』の全容」サンデー毎日、1961年3月特別号
脚注
関連項目
座標: 北緯39度55分46.68秒 東経116度22分31.38秒 / 北緯39.9296333度 東経116.3753833度
- ^ 不破哲三「日本共産党の歴史と綱領を語る」2000年7月20日、日本共産党創立78周年記念講演
- ^ 『生還者の証言』p226
- ^ 『生還者の証言』p224、226。この政治局会議は元海軍大将吉田善吾邸の一室でおこなわれたという。
- ^ 『生還者の証言』p223 - 227
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.131
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.133
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.140
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.144
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.145
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.156
- ^ 『生還者の証言』P225、243 - 244
- ^ 『生還者の証言』p225
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.139
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.148
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.143
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.152
- ^ 渡部富哉 白鳥事件関係裁判資料の公開と真相をめぐって ちきゅう座、2009年12月5日
- ^ 樋ロ篤三 めしと魂と相互扶助―私の半世紀の実践総括をかねて(その一) ちきゅう座、2001年正月記
- ^ 『日本労働年鑑』第24集 1952年版 臨時中央指導部の設置と全国代表者会議
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