ヴィトレ (イル=エ=ヴィレーヌ県)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/09 05:37 UTC 版)
地理
ヴィトレは、ヴィレーヌ川の丘陵にあり、パリ=レンヌ間を走るフランス国鉄の路線が、東西の陥没部分を走っている。
歴史
ヴィトレはガロ=ロマン時代にできた。この一帯の農園領主にちなみ、ガロ=ロマン語のVictorまたはVictrixからヴィトレの名が生じた。1000年が、公式にヴィトレの誕生した都市とされている。この時、ブルターニュ公ジョフロワ1世はリワロン・ル・ヴィケールへ封建権力を授けた。リワロンは、与えられたこの戦略的要地をブルターニュ辺境侯領の緩衝地帯として維持するのに努力した。小さな木造のモット・アンド・ベーリー式の城が小高い丘(サント=クロワ丘)の上に建てられた。数度城は焼け落とされ、その後ベネディクト会派のトゥールのマルムーティエ修道院に属する聖職者へ譲渡された。石造の城は1070年にロベール1世によって、ヴィレーヌ川谷を占める岩が露出した現在の場所に建てられた。その頃建てられた原型の石造城は現在も見られる。
13世紀、城は拡大され、頑丈な塔とカーテン状の壁が装備された。城は露出の三角形の場所を結合し、フィリップ2世の城の様式を踏襲した構造で建設された。この時代、ノートルダム教会を含むヴィエイユ・ブール地区(Vieil Bourg)はヴィトレの東側で発展した。都市は防衛用塁壁と堀で囲まれた。この時代には現在のかたちをとった城塞都市であった。ヴィトレ男爵は、城塞都市周辺の特権自治体建設を指揮した。3つの自治体は、ヴィトレの現在の近隣コミューンの通りの線状レイアウトをはっきりとさせた。13世紀以降、ヴィトレは伝統的な中世都市の要素全てを結合させた。要塞状の城、宗教施設、神学校、郊外である。
中世
15世紀、城は大砲設計の発達に遅れないよう変化した。以後、軍事的用途から外され、ヴィトレ男爵ギィ16世・ド・ラヴァルと妻アンヌ・ド・モンモランシーの快適な住居となったのである。同時期に、多くの半木造住宅と私的な高層住宅が市内に建設された。これらの中世地区を、頑丈な枠組み建築と曲がりくねって暗い通りが、小路のネットワークと同様に特徴づけていた。防御用の観点から、これらの狭い通りは市を攻略するのに邪魔となった。住宅の間口は半木造か石造のどちらかであった。コーベル(持ち送り積みとも。通りの上に突き出た高い階を張り出させるもの)が場所の節約を助けた。これらが悪天候から歩行者を守り、中央の水路へ雨水を通し、木造のファサードを良い状態で保存するのに役立った。
ヴィトレの通りの名前は、しばしば一帯の商人組合から生じた。例えば、ボードレーリー通りは皮なめし職人("baudroyors")が集まる場所であったし、陶器職人の通りも存在する。
ヴィトレ歴史地区はマルシュー広場か、ベネディクト会派修道院近くのマルシェ広場である。現在の城の広場は、かつて城の前庭であった。ノートルダム広場は、元は織物市場が開かれていた。15世紀以降に繁栄したヴィトレは、1472年に起きた織物の国際貿易促進のために組合を持っていた。
ルネサンス
ヴィトレは、ブルターニュ公国内で最も繁栄する経済を持っていた。ヨーロッパ中に商人組合が麻織物を売った16世紀にそのピークを迎えた。商人たちは、現在は閉鎖都市を強調しているルネサンス要素を作りだして、自分たちの広大な高層住宅を建てた。1598年、アンリ4世がヴィトレを通過した。彼は3人のヴィトレ中流階級の男たちの財に打ちのめされ、こう述べた『"もし私がフランス王でなかったら、私はヴィトレの中流階級の人間になりたい! "』
16世紀終わりの宗教戦争の最中、ヴィトレは新教徒の都市であった。ヴィトレは5ヶ月間もブルターニュ知事でカトリック同盟の首領メルクール公フィリップ・エマニュエル・ド・ロレーヌが指揮する軍によって包囲された。17世紀、ヴィトレ男爵家は、ヴェルサイユ宮廷のために町を手放した。市はその評判を失い、静かな土地となった。
この状況は18世紀を通じて続き、19世紀半ばに鉄道が敷かれるまでさらに続いた。加えて、18世紀終わりは王党派の起こしたゲリラ戦シュアンヌリーが特筆される。ヴィトレ領主は絶え、新たで重要な時代が始まったのだった。フランス革命後、小郡庁が置かれた。
19世紀から20世紀
鉄道敷設の準備のため、市は南部の防衛設備破壊を決めて閉鎖都市を開き、明白に改善された。ダン=オー門、ガトセル門、ダン=バ門が、南部の開発のために破壊された。
ヴィトレは、パリ=ブレスト間の路線が1857年4月に初めて開通した時から鉄道ハブ地となった。鉄道駅の建設着工は1855年で、閉鎖都市のちょうど南である下町にネオ=ゴシック様式の小さな荘園邸宅を模して建てられた。市はこの重要な鉄道の影響によって2度実際に切り刻まれた。しかし、これらの産業発展にもかかわらず、市の発展は小さく、農業地帯の中の小さな市場の町のままであった。さらに、1926年には小郡の地位も失った。
ヴィトレは2つの世界大戦で徹底的な破壊を免れ、1944年6月に恐ろしい空襲を受けてほとんどの部分を失ったフージェールを除いて、その歴史的遺産を保存していた。第二次世界大戦終戦後、ヴィトレはフランス全土同様に経済ブームを経験した。
1950年から、ヴィトレは広範囲に発展した。栄光の30年間の最中、ヴィトレはフランスの多くの町がそうであったように、田舎からの転入者を多く受け入れた。
この人口流入が新たな建物開発の引き金となった。メゾン・ルージュ地区の現代的な6階建て建築がこれにあたる。市は相当に開発され、工業地帯と郊外が拡張された。ヴィトレ人口は、1954年の9,611人から現在の17,000人にまで増加した。これは半世紀前の80%以上増加したことになる。城壁内の旧市街は、町の豊かな芸術建築遺産を保存し続けている。
統計
14世紀の終わり、ヴィトレには4,000から5,000人の人口があった。同時期のレンヌとナントは13,000人から14,000人前後だった。1560年、ヴィトレ人口は7,800人と概算され、ヴァンヌやカンペールとほぼ同人数であった。
随筆家セヴィニエ夫人が生まれた頃である、1620年前後には、ヴィトレは7,500人の人口を数えた。1762年には人口は14,000人に達した。この人口には市内の中世の境界圏内が含まれ、現在のヴィトレの1/3の面積であった。当時の人口密度は30,000人/km2に近かったことになる。
フランス革命前夜の1789年、ヴィトレ人口は10,850人であった。革命後には明かな人口減少を示し、1861年に8,904人となっていた。1911年、人口が10,613人に増えたことで緩やかな増加傾向が見て取れる。第一次世界大戦と、その後の経済停滞で人口は8,506人に減少した。1999年より、人口は再び18世紀の基準に達し、15,313人となった。2006年には16,156人となった。ヴィトレ小郡3つを合計すると、1999年時点で44,623人の人口があった。シャトーブール小郡を含む大ヴィトレ都市圏全体では、人口55,464人となった。
VITRÉ | 1800 | 1836 | 1856 | 1881 | 1901 | 1921 | 1936 | 1954 | 1962 | 1968 | 1975 | 1982 | 1990 | 1999 | 2006 |
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Population | 8,809 | 8,901 | 8,854 | 10,314 | 10,775 | 8,154 | 8,506 | 9,611 | 10,380 | 11,343 | 12,322 | 13,046 | 14,488 | 15,313 | 16,156 |
Sources : INSEE and « Vitré » of ROBERT-GUÉDON D., LE GOFF D. et BORDILLON H. Ouest-France Editions |
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