ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1686年) 就役後

ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1686年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 00:48 UTC 版)

就役後

1684年8月19日、影響力のある商人や船長が提出した請願カスパー・タムドイツ語版が艦長に推薦された。翌日、劣らず影響力に富む利益集団が提督府を訪れ、ヨハン・シュルテを艦長として提案し、結局はその案が優先されることになる。しかし市民議会英語版が彼を同職に就けることを拒んだ結果、やはりタムが2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の艦長に任命されている[9]。初代「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」のホルステ艦長[10]と同様、タム艦長も護送船団への命令に重ねて背き、収支決算簿に申告していない貨物を指揮下の護衛艦に積み込んだ。タムは批判に直面したが、彼は例えば輸送した砂糖バラストと称し、その携行の理由として積荷の重さによる水上の安定性向上を通じた、艦長として当然の権利である帆走・戦闘性能の改善を挙げている。提督府は特に丁寧な調査を実施せず、すでに築かれていた海賊との戦いにおけるタムの功績を否定しようとする者はいなかったため、彼は辛うじて懲戒処分を免れた。

2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は1686年から1718年にかけて24回の護送に従事した。イベリア半島へ7回、イングランドへ3回、北極海へ6回並びにアルハンゲリスクへ8回である[11]

1719年、全面的なオーバーホールが必要になると、ハンブルクの会計課は32年の就役の末に必要な修理を承認しなかった。艦はまだ十分に凌波性を保っていたが、これらの修理は同時に喫水の増加に直結するものであった。同時期のエルベ川が次第に浅くなってきていると判明し、特に川の浅瀬であるアルトナ砂州が喫水の深い船にとって危険になっていたため、これは甘受できるものではなく、同年3月31日にこの古い艦をもはや維持しないことが決定された。

この決断が下された後、2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は健康委員会の提案でなお暫定的に検疫船として使用される。しかし提督府は基本的に、この護衛艦を売却する方針であった。ハンブルクに隣接し、当時はデンマーク王国に属していたアルトナが関心を表明したが、落札することはできなかった。アルトナ市民が同艦をハンブルクのすぐ近く、エルベ川の中央で自沈させ、ハンブルクへの自由な通商路を封鎖するか、少なくとも阻害する懸念があったからである。

他の候補者は、900ターラーまで支払う用意があった。しかし提督府は少なくとも1,000ターラーの利益を挙げたかったため、さしあたって取引は成立しなかった。

2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」がそれ以降、文献に登場したかは不明である。1722年には後継の3代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」が竣工し、公衆に披露されているため、その時点で古い艦はもはやハンブルクの所有下にはなかったものと考えられている。

1669年から1747年にかけて、護衛任務が行われなくなるまでハンブルク市のために活動し、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の名を冠した護衛艦は全部で4隻存在する。


  1. ^ 残念ながらこの模型は損傷している。例えば艦尾に正しく据えられている舷灯は二つしかない。通常、実艦にも模型にも三つの横に並んだ舷灯が備わっている。
  2. ^ 一次史料や二次史料では、ハンブルクの護衛艦は二層の砲甲板を備える比較的大型の二層艦であった場合でもフリゲートと呼ばれることがある。しかしそれらは18世紀中盤以降に導入された、砲甲板を一つしか持たないより軽量の、非常に航洋能力に優れた新時代のフリゲートではない。17世紀と18世紀前半、「フリゲート」という呼称は多様な艦種に対して使用されており、非常に小型の一層艦から比較的大型の二層艦を含む多くの艦船がそう呼ばれる場合があったのである。
  3. ^ ハンブルクの1フィート(フース)は0.2856 mである。
  4. ^ 一部の史料・文献や現代の慣用において初代「ヴァーペン・フォン・ハンブルク(Wapen von Hamburg)」は「Wappen von Hamburg」(ヴァッペン・フォン・ハンブルク)と表記される。しかし、同時代のいくつかの史料では「Wapen von Hamburg(ヴァーペン・フォン・ハンブルク)」とも呼ばれている。従って歴史的に正しい表記は項目名の通り、「Wapen」(ヴァーペン)であり、これは後継の諸艦にも当てはまる。
  5. ^ 商業委員会が設立される直前の1662年6月、ポルトガルへ向かうハンブルクの武装商船8隻が、バルバリア海賊のガレー船わずか2隻に鹵獲された。この私掠行為は結局、ハンブルクの商業界に150万クーラントマルクドイツ語版の経済的損失をもたらしている。
  6. ^ 市議会はその書簡の中で、これらの艦艇を折に触れて「オルロークシッフドイツ語版」、すなわち「軍艦」と呼称している。これに対し、ハンブルク提督府も商業界も対外的には、それらが商品の防衛に寄与するものであり、ハンブルクの戦争行為のために発注されたものではないと断言している。
  7. ^ 砲身を水で冷却するこの方法には、1794年頃から疑問が呈されていた。なぜなら冷却により、構造が破損する可能性があったからである。そのため初めてイギリス海軍が、砲身を冷却しない手法へ移行していった。
  8. ^ スウェーデンの大砲は品質に優れ、インフラも良好だったので、当時のハンブルク提督府は長い搬送経路を甘受する用意があった。スウェーデンの大砲は当初、品質に問題があったもののネーデルラントの技術が導入されてからは成功をおさめ、1639年以降のスウェーデンはヨーロッパでも一流の武器製造国にまで成長した。1668年には輸出を通じて1346門の大砲がスウェーデンの製造業者から出荷されている。Mondfeld/Bayerlein/Klingenbrunn, p. 170及びCipolla, p. 61と次頁を参照。
  9. ^ 当時のハンブルクにおいては、船長の職位は購入するのが一般的であった。応募者は船長職に就くため、多数の賛同者と並んで少なからぬ資金を用意しなくてはならなかった。護衛艦の艦長は150ターラーの月給を受け取っていたので、この就職活動における出費を取り戻すには一定の期間がかかる。艦長の選任は護送船団委員会が行う。護衛艦の艦長は、生涯にわたって固定の俸給と年金を受け取った。
  10. ^ ホルステ艦長は繰り返し警告されたにも拘わらず、何度も艦長への命令に違反し、最終的に託されていた初代「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の指揮権を失っている。
  11. ^ Walter Kresse: Von armen Seefahrern und den Schifferalten zu Hamburg, Hamburg 1981, p. 36





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