モルデ 歴史

モルデ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 05:11 UTC 版)

歴史

1904の絵の中のモルデ
1940年4月のホーコン7世とオーラヴ王太子とシラカバ

現在のモルデの外側にあるヴェオヤ島の中世の町が、歴史家スノッリ・ストゥルルソンによって初めて記録に現れたものであり、1162年にセッケンの戦いが起きた場所であるという(ノルウェー内戦でホーコン2世が貴族エルリング・サッケに殺された)。

しかし、この地域への移住は当時よりさらに遡った時期らしい。モルデ西方のビョルセットで岩に刻まれた2つの絵が見つかっているのである。

15世紀前後、ヴェオイはその影響力を失い、島はたちまち廃れた。しかし、地域の商業が死に絶えたわけでなく、レクネスとモルデ(Moldegård)からの移住者が発端となって外国商人相手の材木売買が始まった。

モルデの中心街とモルデ聖堂

町は1614年に商業権を得た。中部ノルウェーがスウェーデン軍に占領された1658年から1660年、北方戦争でデンマーク=ノルウェー間にロスキレの和議が結ばれた後、町はスウェーデン人の住む場所となった。1660年にコペンハーゲン和議が結ばれ、モルデは行政中心地となり、1742年にロイヤル・チャーターが授けられた。モルデは18世紀以降、繊維・服飾産業で栄え、観光も主産業となった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世イギリスプリンス・オブ・ウェールズが毎夏訪問していた。モルデは、風変わりな木造住宅、みずみずしい庭園と公園、散歩道とあずまやなど、牧歌的な町並みに囲まれた豪華なホテルとみなされ、バラの町というあだ名があった。この美しい町が、1916年1月21日に起きた大火で三分の一を失った。しかし、モルデは再建されて経済成長を続けた。

2度目の大火は、ナチス・ドイツが侵攻した1940年の4月と5月の空襲であり、町の三分の二が焼かれた。ノルウェー王ホーコン7世、内閣、議会と国庫が1940年4月9日のオスロから逃れてイギリスへ向かうべくモルデに到着していた。ホーコン7世とオーラヴ王太子(のちのオーラヴ5世)と政府は巡洋艦HMSグラスゴーへ逃れ、無事亡命した。

名前の由来

最初の移住地となったモルデの農場(ノース語でMoldar)が語源である。mold は『肥沃な土壌』を表し、*moldrだと『頭蓋骨、骨組み』といった意味となる(モルデマルカにある丸い頂を示す)。

紋章

1742年から使用されている。ニシンの入ったたるを追うクジラを表し、市の最初の産業である水産品と木材の輸出を象徴化している。モルデは捕鯨の町ではない。古来からクジラは精霊で、魚の群れを一年の何度かに追ってやってくる姿から吉兆のしるしだと信じられていた。




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