マカオ 概要

マカオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 01:49 UTC 版)

概要

マカオは珠江の最下流域、西の河口に位置し、中華人民共和国広東省広州からは南西に145km、香港からは南西に70km離れている。広東省の珠海市に接し、中国大陸本土南海岸に突き出たマカオ半島と、沖合の島から構成される。この島は、もともとタイパ島コロアネ島という二つの島であったが、島の間は埋め立てられてコタイと呼ぶ地域となり、全体がひとつの島のようになっている。現在、半島部と旧タイパ島の間は三つの橋でつながれ、コタイから西に珠海市と結ぶ橋もできている。

セナド広場

1999年までポルトガルの海外領土であったマカオは、中国大陸のヨーロッパ諸国の植民地の中ではもっとも古く、域内に植民地時代の遺構が数多く点在する。このため、2005年7月15日に、マカオの八つの広場と22の歴史的建造物がマカオ歴史地区という名前でユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。

域内には多くのカジノが運営されていることから、「東洋ラスベガス」ともいわれている。歴史的建造物とカジノが、香港や中華人民共和国本土のほか、東南アジア東アジア域内から多くの観光客を呼び込み、それに隣接しているホテルを含む観光産業が盛んである。毎年11月に市街地を使って行われるマカオグランプリは世界的に著名な自動車レースであり、この時期に多くの観光客をひきつけている。

マカオと香港間は24時間高速船が約1時間で結んでおり、ほかにもヘリコプターによる定期便が頻繁に運航される。日帰りで訪れる香港人や旅行客も多い。2018年10月23日に香港とマカオを結ぶ港珠澳大橋が完成した。

名称

マカオという名称の由来には多数の説があり定かではないが、マカオ半島にある道教媽閣廟に由来する説が有名である。ポルトガルの船員がマカオの媽閣の前から上陸するときに地名を聞いたら、廟の名前を聞かれたと思って「媽閣」(広東語 : Ma1gok3、日本語発音 : マーコク)と答えたからと伝えられている[3]。それ以外は、当地の人間は船員の言葉が理解できず、広東語の悪口「㞗」(広東語 : gau1、日本語発音 : カウ)が混ぜた「なに?」すなわち「乜㞗?」(広東語:Mat1gau1、日本語発音 : マッカウ)の返事を真に受けたという説もある。

媽閣廟は、1448年媽祖を奉るために建設されたもので、現存し、海運、漁業の神として崇拝されている。

澳門は、「澳」が「水が奥深く入り込んだ湾や入り江」を表し、「門」は門のようにそびえ立つ南台山と北台山、また東の大字門と西の小字門から澳門と表記された。歴史的には、蠔鏡という名が代に記録されているのが最初で、澳門のほか濠鏡澳濠鏡海鏡香山澳などの名称もあった。文語的な表現でマカオは「濠江」(普通話 : Háojiāng / 日本語発音 : ハウチャン、広東語 : Hou4gong1 / 日本語発音 : ホウコン)とも表記される。が多いことから蓮島蓮海などの呼称もあり、区旗モチーフにも使われている。

「Macau」の広東語音訳として馬交(広東語:Ma5gaau1、日本語発音 : マーカウ)という表記が用いられることもある。ポルトガル領時代の正式名称は Cidade do Nome de Deus de Macau, Não Há Outra Mais Leal(「最も忠貞なる主の名の街・マカオ」の意味)であった。

歴史

明朝以前

珠江と南シナ海の境目に位置するマカオは、もともと、漁民や蛋民と呼ばれた水上居民を中心とする漁業の村であった。その後、東南アジアなどとの通商が始まると、貿易の町として栄えてきた。

ポルトガル人の居留地

1513年に、当時世界有数の海洋大国として世界各地にその覇権を誇っていたポルトガル人が中国に初渡来し、王朝との交易を開始した。海禁下の明が1522年屯門島を拠点とするポルトガル船を駆逐し、広州交易を禁止した。ただしこの時期のマカオの領有権はポルトガルではなく明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。

しかし、明の嘉靖年間(1522年 - 1566年)には、マカオ周辺海域での海賊の横行が甚だしく、ポルトガル艦隊総司令官のレオネル・デ・ソウザが海賊退治に協力した。1557年、その褒美としてに明からマカオへの居留が認められた。明が終焉に至る17世紀中頃までマカオを中継地としたポルトガル交易が東アジア周辺国で広がりをみせた。ポルトガル人居住者は、明代から居留のための献金などの名目で交易の一部利益を上納していた。

この頃のマカオは、日本鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めた。その後、ポルトガルとスペイン同君連合となり、スペインの植民地マニラとの間にも貿易ルートが開かれ、これはオランダとのマカオの戦いを起こすことになる。しかし明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放等の影響から、アジアにおける貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。

ポルトガルへの割譲

1840年代のマカオ
1900年代のマカオ

居住確保を目的としたポルトガルからの継続的な献金は、アヘン戦争後の1849年道光29年)に停止された。ポルトガル人は、代の1851年タイパ島、続いて1864年にコロアネ島を占拠するところとなり、1887年中葡和好通商条約により、澳門(マカオ)はポルトガルへの正式割譲となり、ポルトガル直轄の植民地となった。

ポルトガル政府が任命した総督の統括により、居住地が線引されて2区となった。1区は清国人居住地で、もう1区にはポルトガル人をはじめとした外国人居住区が設けられ、各区長によって各区の行政が推進された。こうした行政下で、清国人および領事以外の外国人が、1906年7月に旅券または書類提示による入出国管理へ移行するなど、ポルトガル人居住区で近代的な法整備が進んだ。

その後、天然の良港に恵まれアジアにおける要衝として発展した香港とは対照的に、マカオの貿易港としての機能は低下し、その地位は全く凋落した。マカオは珠江の土砂が堆積しやすい位置にあり、大型の船舶が入港しにくくなっていたこと、当時ポルトガルの国力が低下していたことも衰退の原因に挙げられよう。

中華民国と日本との間に1937年より起きた日中戦争においては、両国と国交を持ち中立的立場にあるポルトガル領であることから戦火とは遠い存在であった。

第二次世界大戦

1939年9月に起きた第二次世界大戦においてポルトガルは中立国となり、その後1941年12月に勃発した太平洋戦争を通じて日本とも中華民国ともイギリスとも交戦状態に入らず、ポルトガルの海外県政庁のもとで中立港として機能した。このため戦禍を逃れようとした大量の難民が中国大陸から流れ込んだ。

イギリスなど各国領事館が在したマカオは、大戦中は諜報活動の場となった。日本も1941年1月に在マカオ日本領事館を設置、蔣介石の直属機関(藍衣社)等による抗日活動と標的テロも勃発し、枢軸国の敗戦が濃厚となる1944年末には対日テロが激化した。

1945年には福井保光駐マカオ領事が中国人の襲撃に遭い、拳銃で射殺されるという事件が起きている[4]。なおマカオ人の少数が香港防衛義勇軍 (Hong Kong Volunteer Defense Corps) のメンバーであり、香港の戦いで日本軍の捕虜となった。ポルトガル人警察官による澳門特務機関員への発砲事件などが発生するなど、緊迫した事件が相次いだ。

戦後

1945年8月に第二次世界大戦が終結し、日本軍が中国大陸から撤退した後に、中華民国総統である蔣介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党の間に国共内戦が勃発した。

その後1949年には、毛沢東率いる中国共産党により、北京首都とした中華人民共和国が成立し、中華民国に代わって中国大陸の大部分を統治するようになったものの、その後もイギリスが統治を続けた香港同様、マカオも依然としてポルトガルの統治が続いた。

なお、ポルトガルは中国共産党政府を西側陣営で早くも1950年承認したイギリスとは異なり、第二次世界大戦後もファシズム的なエスタド・ノヴォと呼ばれる長期独裁体制が存続していたアントニオ・サラザール政権下にあったこともあり、中華人民共和国との国交は結ばないままであった。

マカオ暴動

中国政府へ謝罪する文書に署名するマカオ総督、1967年
毛沢東と会見する何賢、1956年

中華人民共和国内で文化大革命が行われていた1966年11月に、中国共産党系小学校における無許可での増築工事に対するポルトガル陸軍大佐のモタ・セルヴェイラ代理総督による制裁が行われ、この制裁に怒った住民によるデモがセナド広場などで数回にわたり行われた。当初は平和的なデモであったが、その後中国共産党系の住人によって暴動化し、12月3日には、これを鎮圧しようとしたフィゲレド警察署長指揮下のポルトガル軍警察がデモ隊に発砲したために、数人のデモ隊が死亡する惨事となった。

事件の最中に赴任したホセ・マニュエル・デ・ソウサ・エ・ファロ・ノブレ・デ・カヴァーリョ新総督は、29日午後にマカオの経済界代表と会談し、学校建設阻止のために警察を動員したことは不適切であったことを認め、中立の調査委員会を設けて事件の解決を図ろうとした。

しかし中華人民共和国政府は、人民解放軍によるマカオへの軍事侵攻をほのめかしながら、ポルトガル政府に対して事件の謝罪と責任者の処罰、共産党系の遺族に対する慰謝料の支払い、以後の中国共産党系住民による統治参加、そして中華民国の国務機関(諜報機関)によるマカオ内での活動の停止などを要求した。

当時のポルトガル海上帝国ポルトガル植民地戦争で国力が低下し、マカオにわずかな軍事力しか駐留させていなかった上に、同じく海外領土として中国大陸に香港を抱えていたイギリスとの英葡永久同盟も5年前にゴアなどのポルトガル領がインドから武力侵攻を受けた際に役立ってなかったため、軍事的な支援は期待できなかった。軍事対立が起きた場合全てを失うとサラザール首相は判断し[5]、総督は毛沢東の肖像画が掛けられた場所で謝罪の文書に署名させられ[6]、セルヴェイラ代理総督は追放され、要求をほぼ全面的に受け入れた。

以後「マカオの王」「マカオの影の総督」[7]と呼ばれ、ポルトガル政府と友好的な関係を持った親中派実業家の何賢中国語版の影響下に入ることになり[8]、当時のアフリカのポルトガル植民地とは対照的に政情は安定した[9]。ポルトガル政府は中華民国との国交を保ち続けたにもかかわらず、国連で国際連合総会決議2758に賛成したり、その植民地であるマカオがあらゆる中華民国の活動を禁止[10][11][12]して単独で中華民国と事実上「断交」するなど中華人民共和国政府に配慮した政策をとることとなった。

返還へ

オテロ・デ・カルバーリョ大尉率いる国軍左派による1974年4月25日カーネーション革命の後にポルトガルは民主化され、当時所有していた全ての海外領土を放棄する方針を採ることになった。しかし中華人民共和国政府はマカオの主権を主張しつつ当分の間のポルトガルによる統治を希望し[13]1976年にポルトガル政府は、マカオを「特別領」として再編成し行政上及び経済上の自治を多くの点で認めた[14]

その後1979年に、ポルトガル政府は中華人民共和国政府との国交樹立(と中華民国との断交)を行った。第二次世界大戦後に国力が低下しており、しかも地元民による自治が進んだマカオを海外領土として統治することに興味を持たなくなったポルトガル政府は、中華人民共和国への即時移譲を望むも、中華人民共和国もまだまだ貧しいため返還は遅れ、「アジア最後のヨーロッパ植民地」と呼ばれていた[15][16][17][18]

その後、1984年に行われたイギリスと中華人民共和国の香港返還交渉に続いて、1987年4月13日にポルトガルと中華人民共和国がマカオ返還の共同声明に調印した。

返還後

マカオ返還の象徴、金蓮花広場中国語版

マカオの行政管理権は1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオを特別行政区にすることになった。初代行政長官には何賢の息子である何厚鏵が就任した。

マカオのスカイライン

返還後のマカオの行政長官は、選挙委員会が選んだ者を中華人民共和国の中央政府が任命する形となっている。中華人民共和国の領土の一部であり、政治的にもその下に入ることとなったが、返還後50年間は現状の保全が取り決められている。このため、現在もポルトガル語が公用語として使用されるほか、ポルトガル統治時の法律の多くがそのまま適用される。

ポルトガル語中国語広東語)と並ぶ公用語とされ、政府の公文書におけるポルトガル語表記や、道路表示や看板などの全ての表示にはポルトガル語と中国語の表記が義務付けられているほか、一部のカトリック系学校においてポルトガル語の授業が設けられているものの、少数のポルトガル系住人を除くほとんどのマカオ住民が日常的に使用する言語は広東語である。上述の通り、以前から中華人民共和国との結び付きが強かったため、香港に比べ若い世代を中心に普通話の理解度が高い(広州とほぼ同程度)。

2002年に、カジノ経営権の国際入札を実施し、その結果これまで何鴻燊(スタンレー・ホー)経営の「Sociedade de Turismo e Diversões de Macau,S.A.(STDM/澳門旅遊娯楽股份有限公司)」が独占してきたギャンブルを含むカジノ産業を開放してアメリカスティーブ・ウィン経営のウィン・リゾーツシェルドン・アデルソン経営のラスベガス・サンズなど多くの外国からの投資を呼び込むことに成功し、2006年にはマカオのカジノ収入はラスベガスを抜いて世界最大のカジノ街となった[19]

2003年には中国本土・マカオ経済連携緊密化取決めの締結で中国本土との貿易も盛んになり、2004年から2014年まで2桁の経済成長を続けて世界で最も1人当たりの国内総生産(GDP)が高い地域の一つとなり[20]先進国水準の公共サービスや社会福祉制度も充実するようになった[21][22]。2008年からはインフレ対策や富の再分配を名目にマカオ市民への9000パタカ(約12万円)の定額給付金も2019年時点で毎年実施されてきた[23][24]




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  2. ^ a b c The World Factbook — Central Intelligence Agency
  3. ^ 黄翊、『澳門語言研究』p3、北京・商務印書館、2007年
  4. ^ 森島守人著、『真珠湾・リスボン・東京 続一外交官の回想』、岩波新書、1956年
  5. ^ A guerra e as respostas militar e política 5.Macau: Fim da ocupação perpétua (War and Military and Political Responses 5.Macau: Ending Perpetual Occupation)”. RTP.pt. RTP. 2020年1月1日閲覧。
  6. ^ Naked Tropics: Essays on Empire and Other Rogues, Kenneth Maxwell, Psychology Press, 2003, page 279
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  8. ^ Far Eastern Economic Review, 1974, page 439
  9. ^ Far Eastern Economic Review, 1974, page 439
  10. ^ 内藤陽介『マカオ紀行 ― 世界遺産と歴史を歩く』173p
  11. ^ Macao Is A Relic Of Bygone Era Of European Gunboat Diplomacy, David J Paine, Associated Press, Daily News, May 14, 1971, page 17
  12. ^ Macao Locals Favor Portuguese Rule, Sam Cohen, The Observer in Sarasota Herald-Tribune, June 2, 1974, page 4H
  13. ^ New lease for an old colony, The Straits Times, 28 March 1980, page 15
  14. ^ Entrepreneurs and Enterprises in Macau: A Study of Industrial Development, V.F.S. Sit, R. Cremer, S.L. Wong, Hong Kong University Press, 1991, page 175
  15. ^ 【中国探訪】世界の不夜城マカオのいま 革命歌が流れ、人民解放軍も人気! いったい何が”. 産経ニュース (2017年8月24日). 2018年5月2日閲覧。
  16. ^ China Regains Macau After 442 Years”. ワシントン・ポスト (1999年12月20日). 2019年3月4日閲覧。
  17. ^ Macau: Macau's Big Gamble”. TIME (1999年12月20日). 2019年3月4日閲覧。
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  20. ^ Li, Sheng (2016). "The transformation of island city politics: The case of Macau" (PDF). Island Studies Journal. 11 (2): 522.
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  22. ^ a b Ferrao, Silvia O. S.; Gaspar, Elisa Lei (2013). "Public healthcare system in Macao". 2013 IEEE 2nd International Conference on Serious Games and Applications for Health (SeGAH). pp. 1–8. doi:10.1109/SeGAH.2013.6665312. ISBN 978-1-4673-6165-1.
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  24. ^ マカオ政府、12年連続で市民へ現金配布…7月から順次=支給額は前年から11%アップの約13.6万円、カジノ税収潤沢で富の還元”. マカオ新聞 (2019年5月10日). 2019年7月26日閲覧。
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  29. ^ 人民解放軍、マカオで災害出動 返還後初めて日本経済新聞アジアニュース(2017年8月25日)
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  43. ^ GLOBAL RELIGIOUS LANDSCAPE 45 Table:Religious Composition by Country ピュー研究所
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