ボイン川の戦い 戦闘後

ボイン川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/17 05:02 UTC 版)

戦闘後

ジェームズ2世はダブリンへ戻った後はフランスへ逃れ、ウィリアム3世はジェームズ2世退去後のダブリンに入り、東部のジャコバイトは降伏してレンスターはイングランド軍が平定した。ローザンとティアコネルもフランスへ渡りジャコバイトの指揮は一時ベリックに託され、残りのジャコバイト勢力圏で抵抗を続けた。ウィリアム3世は後をオランダの将軍ゴダード・ドゥ・ギンケルに任せてイングランドへ帰国、翌1691年から大同盟戦争で大陸遠征に出かけフランス軍と戦った。

マンスターはリムリックを除いてイングランド軍がほぼ制圧、1691年6月のアスローン包囲戦でギンケルはアスローンを奪いコノートへ進出、待ち構えていたジャコバイトも7月12日のオーグリムの戦いで破りコノートを平定、8月にジャコバイトが籠城しているリムリックへ進軍・包囲した(リメリック包囲戦)。ジャコバイトは1月にフランスから戻ったティアコネルがベリックと交代して再度指揮を執り、ベリックはフランスへ向かった。包囲直前にティアコネルが亡くなりパトリック・サースフィールドが抵抗を続けたが、劣勢の上援軍の見込みもないことから10月に降伏、アイルランドはイングランド軍に完全平定された。

ルイ14世は以後もジェームズ2世への援助及びイングランド遠征を企てたが、1692年バルフルール岬とラ・オーグの海戦でフランス艦隊がイングランド・オランダ連合艦隊に大敗してイングランド侵攻は失敗、ジェームズ2世の復位も実現しないまま終わった。ウィリアマイト戦争の勝利で背後の安全を確保したウィリアム3世は戦力を大陸に差し向け、戦局は大同盟戦争へと移っていった[5]


  1. ^ 山本正 『図説 アイルランドの歴史』河出書房新社、2017年、60頁。ISBN 978-4-309-76253-1 
  2. ^ 友清、P117 - P121、P130 - P133。
  3. ^ 友清、P133 - P144。
  4. ^ 友清、P144 - P147。
  5. ^ 友清、P147 - P149、P153 - P171。


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