ブラウン対教育委員会裁判 最高裁判所

ブラウン対教育委員会裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/17 08:07 UTC 版)

最高裁判所

最高裁での裁判は、ブラウン裁判の他、4つの同様の訴訟と統合されて争われた。ブリッグス対エリオット裁判(サウスカロライナ州)、デーヴィス対プリンスエドワード郡学校委員会裁判(バージニア州)、ゲッブハート対ベルトン裁判(デラウェア州)、ボリング対シャープ裁判(ワシントン特別区)は、すべてNAACPが資金を提供した訴訟であった。

これら合計して5つの異なった訴訟は全体でおよそ200人の原告となり、リンダ・ブラウンはその象徴的な子供となった。

1954年の最高裁の判決は、明確に公立学校での人種隔離を有効にした、1899年のカミング対リッチモンド郡教育委員会の判決を覆した。ブラウン判決はしかし、アメリカの公立学校での即座の差別廃止をもたらさず、ましてや他の公共施設での差別廃止の命令もなかった。これらは1964年公民権法の可決まで達成されなかったが、しかしそれでもブラウン判決は公民権運動の巨大な前進であった。

翌年の1955年には、より完全な「ブラウン2判決」と呼ばれる判決が出るに至ったが、1970年代のニクソン政権の時代まで、南部ではほとんどの公立学校は人種分離されたまま残った。

判決の余波

すべての者がブラウン判決を受け入れたわけではない。バージニア州では、ハリー・F・バード英語版上院議員が、人種統合をするよりむしろ学校を閉鎖しようとするマッシヴ・レジスタンス運動を組織した。南部州出身の議員たちは、人種統合は受け入れがたいものであるとする南部宣言(サザン・マニフェスト)に署名し、ブラウン判決に対する含みをもたらした。

1957年、アーカンソー州知事のオーヴァル・フォーバス英語版は、リトルロックの高等学校に入学をしようとする9名の黒人学生を妨害するために州兵を召集した。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領はこれに反応し、ケンタッキーのフォート・キャンベルからアーカンソーまで、第101空挺師団を派遣し、入学する黒人学生をエスコートさせた。(リトルロック高校事件

1963年、アラバマ州知事のジョージ・ウォレスは、アラバマ大学への2人の黒人学生の登録を防ぐため、校舎の扉の前に立ちはだかって通行を妨害し、悪名をあげた。

判決が出たころ、マッカーシズムのあおりを受けハリウッドで失職に追い込まれたデイヴィッド・I・アーキンという人物がいた。アーキンは判決に感銘を受け、人種差別に異を唱える詞を書き、作曲家のアール・ロビンソンがメロディをつけた[2]。二人が書いた「ブラック・アンド・ホワイト」は1956年にピート・シーガーによって歌われた。その後、1972年にスリー・ドッグ・ナイトがカバーしたバージョンは米国、カナダ、ニュージーランドなどでチャートの1位を記録するなど大ヒットとなった。

政策への影響

1954年の連邦最高裁のこの判決によって少なくとも法律上の差別(de jure segregation)は解消された[1]。しかし、1966年に連邦教育局が公表したコールマン報告では教育の機会均等をめぐる人種差別の問題が依然として残っている実態が指摘され、公立学校での事実上の差別、教育施設や教職員の資質面での若干の差異、標準テストでの中間得点の格差などの問題が、生徒の家庭的背景や近隣社会の経済的・文化的環境の相違に要因があると結論づけた[3]。連邦政府はこれらの事実上の差別(de facto segregation)に対処するため、白人と黒人の学校のペア方式、学区再編、統合学区制、自発的な転学奨励計画、通学時のバス輸送、学校統合等を推進した[4]


  1. ^ a b 金子忠史 『変革期のアメリカ教育 学校編』東信堂、1996年、28頁。ISBN 9784887130241 
  2. ^ Black and White by Three Dog Night - Songfacts
  3. ^ 金子忠史 『変革期のアメリカ教育 学校編』東信堂、1996年、28-29頁。ISBN 9784887130241 
  4. ^ 金子忠史 『変革期のアメリカ教育 学校編』東信堂、1996年、29頁。ISBN 9784887130241 


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