バディ・ホリー 1957年

バディ・ホリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 10:24 UTC 版)

1957年

完璧なデモ録音

"That'll Be The Day"

2月バディ・ノックスの「パーティー・ドール」が全米NO.1ヒットとなっていた。この曲は1956年4月にノ・ヴァ・ジャック・スタジオで録音されN.Yのルーレット・レコードから発売されたもの。これに触発されたバディらは新たなレコード会社との契約をルーレットに定める。2月25日ノ・ヴァ・ジャック・スタジオで「アイム・ルッキング・フォー・サムワン・トゥ・ラブ」「ザットル・ビー・ザ・デイ」2曲のデモを録音。バディはデッカで録音しながらお蔵入りとなっていた「ザトル〜」に絶対の自信を持っていた。この曲に新たなアレンジとバック・コーラスを加え録音。ラリー・ウェルボーンの回想。「『ザトル〜』には本当に長い時間をかけました。バック・コーラスと一緒に何度となくテイクを重ねそれをバディとノーマン・ペティが繰り返し確認してました」[4]

しかし「ザットル・ビー・ザ・デイ」のデモを聴いたルーレットは自社専属のバディ・ノックスやジミー・ブラウンと似たタイプのバディ・ホリーとの契約よりむしろ楽曲のほうに興味を示し、バディ・ノックスにこれらの曲を歌わせたいと考えた。当然ホリー側の希望とは折り合いがつかず交渉は流れた。見かねたノーマン・ペティはこれまでの人脈を使いバディらを援護する。まずコロンビアに打診するもミッチ・ミラーの回答は「No」。だがコーラル・レコードのボブ・シールは「ザットル・ビー・ザ・デイ」を聴きその完成度の高さに驚き正式の録音は行わずデモ・テープをそのままレコード化したい意思があると言う[8]

違約

3月19日コーラル・レコードと契約。「ザットル・ビー・ザ・デイ」のレコード化にあたって大きな障害があった。デッカとの契約内容に「契約期間中録音した曲は最低5年間他社で再録音する事は出来ない」という条項がありこれに抵触した。苦肉の策として別グループの名義で「ザトル〜」を発売するというもの。新グループ命名にあたり百科事典から選んだ昆虫の名「クリケット(コオロギ)」を採用、ザ・クリケッツが誕生した[注釈 15]。最終的にソロ・アーティスト、バディ・ホリーをコーラルと、ザ・クリケッツをブランズウィックと別々に契約する変則的な形がとられた。奇しくもコーラル、ブランズウィック共にバディを一年で切り捨てたデッカの子会社であった。数か月後デッカは「ザトル〜」のヒットを受けこれに気付くが看過している[4]

全米NO.1ヒット

5月27日「ザットル・ビー・ザ・デイ/アイム・ルッキング・フォー・サムワン・トゥ・ラブ」発売[7]。初動は悪かったが徐々に売り上げを伸ばし8月全米 No.1ヒット(R&B2位)を記録[9]。9月には100万枚を突破、ミリオンセラーとなる。

ペギー・スー

Peggy Sue

6月29日〜7月1日「ペギー・スー」録音。「ペギー・スー」は元々「シンディー・ルー[注釈 16]」というタイトルのラテン・ビートを持ったスロー・テンポの曲だったが現場で大胆なアレンジが施された。「最初にチャ・チャのリズムを入れてみましたが上手くいきませんでした。ジェリー(アリソン)がバディに提案しました。『曲名をペギー・スー[注釈 17]に変えてみたら?』バディはジェリーに『パラディドル(ドラム・ルーディメンツの一つ)入れてみて。』これで曲が走り出しました」(ニキ・サリヴァン)全体の音量バランス調整のためドラムセットをスタジオのロビーに移動、この音をペティはエコー・チャンバーを通したマイクで拾い、曲に合わせエコーの強弱を手動で操作した。マイキングが完了するとバディのギター・プレイに問題が起きた。「私はバディと一緒にリズム・ギターを弾いていたのですが彼のギターがリズムからソロにチェンジする時、ギターのスイッチ切り替えのタイミングがどうしてもあいません。仕方がないので私達が演奏中のバディのギターのスイッチを切り替えました。[注釈 18]」(ニキ・サリヴァン)「私は2、3日間録音を続ける彼らが疲れているのを知っていたので皆に休むように言いました。しかしバディは『もう少し続けさせて下さい。私は眠くありません。』私が『O.K』と返事したのが朝の5時半、そう確か9時半頃には完全なマスターが出来上がっていました」(ノーマン・ペティ)完成した「ペギー・スー」のB面には「今までと違う少し変わった感じの可愛い曲を」と言うメンバー達のリクエストで「エブリデイ」が選ばれた。「『エブリデイ』には時間がかかりました。私はセレステを演奏する事になりスタジオとエンジニア・ルームを行ったり来たりでした」(ノーマン・ペティ)ドラムのジェリー・アリソンは即興で膝を叩いている[4]

人種のはざまで

Buddy Holly & The Crickets 1957(もしくは1958) コーラルのパブリシティフォト

アポロ・シアター出演 8月2日バディ&クリケッツにとって最初の大規模なツアーがスタート。80日間のスケジュールの中にアポロ劇場での一週間が含まれていた(8月16日〜22日)。1934年の開場以来黒人エンターテインメント最高のステイタスとされるこの劇場に白人の出演記録は無い。しかし同名の黒人コーラス・グループ「ザ・クリケッツ」[注釈 19]と混同したプロモーターが誤って「白いクリケッツ」をブッキング、かくてバディ&クリケッツは白人による最初のアポロ出演として名を残すことになった[4]

9月ツアー一行116人を乗せる2台のバスはメイソン・ディクソン・ラインを越え北部から南部に入った。アトランタを経由しニューオリンズに入る国境線でバスはパトカーに呼び止められる。「警官は『ニューオリンズの州法により白人と黒人が同じステージに立つことは出来ない。』と言います。そして2台のバスは96人の黒人と20人の白人に振り分けられ、街に着くと別々のホテルに宿泊させられました。私達はステージに上がる事は出来ず予定外の休暇となりました」(ニキ・サリヴァン)[4]

9月27〜28日「メイビー・ベイビー」録音。ノーマン・ペティは録音の機会を待っていた。コーラル、ブランズウィックの2社からそれぞれ1枚づつLPレコードをリリースするため最低でも必要な20曲を揃えるための新録音が求められていたからだ。ノーマン・ペティの回想。「私のトリオ(ノーマン・ペティ・トリオ)はサウンドトラック制作のためオクラホマ・シティに滞在していました。ツアー中のバディと連絡を取ると二日間の休暇があると言いました(上記ニューオリンズでのトラブルを指す)。それならばと私は彼らと合流しスタジオ、オフィサーズ・クラブを一晩借り録音しました。その後ニューメキシコでバック・コーラスとエコーを加えマスターを完成させました」「ザットル・ビー・ザ・デイ」のヒット以降スタジオ録音はツアーやTV出演のスケジュールの合間を縫うようにして行われるようになる[4]

  • 11月、「ペギー・スー」2位(R&B2位)、同月「オー・ボーイ!」10位、2曲のトップ10を叩き出す。
  • 11月27日、LP「ザ・チャーピング・クリケッツ」リリース。
  • 12月1日、「エド・サリヴァン・ショー」出演。
  • 12月、ニキ・サリヴァン、過酷なツアーを理由にクリケッツ脱退。[5]

注釈

  1. ^ 石油、酪農を主産業とする
  2. ^ 「Down the River Of Memories」を歌唱、賞金5ドルを得る
  3. ^ テープ・レコーダーの前身。ワイヤーに帯磁させ録音・再生を行う原理はテープと同じ
  4. ^ 1948年Hank Snowデビュー曲 「My Two-Timin 'Woman」
  5. ^ Jack Neal (1934〜2015) 1949年当時13歳のBuddyと出会う。1953年Buddy & Jackのコンビを組みKDAV「サンデー・パーティ」への出演、アセテート盤の制作を行う
  6. ^ この時期のステージではバディが一人でパフォーマンスする事があった
  7. ^ 翌15日同ステージにエルヴィス・プレスリー出演、バディ&ボブが前座
  8. ^ 一般に市販されるビニールレコードと素材が異なりアルミニウムの円盤にニトロセルロースラッカーをコーティングしたもの。プロユースの録音、放送での使用を目的とする。
  9. ^ このアセテート盤は現在所在不明。タイトルも分っていいない。
  10. ^ この地区は通称ミュージック・ロウと呼ばれナッシュビル音楽関係の主要なレーベル、出版社、スタジオが集中する
  11. ^ Jim Denny(1911〜1963)1946年WSMの局長に就任。1951年グランンド・オル・オープリーのゼネラルマネジャーに。1954年ウェッブ・ピアスと共同で音楽出版社シダー・ウッド・ミュージック設立。1966年演奏者以外の人物として最初のカントリー・ミュージックの殿堂入り。
  12. ^ Paul Cohen (1908〜1970)シカゴ生まれ。1920年代後半コロンビアの元でレコード・ビジネスに参入。1934年デッカ・レコードの設立に伴い入社、1935年シンシナティへ移住、デッカ中西部支店長に就任。1958年デッカ退社後自身のレーベルToddを立ち上げ、1964年Kappのカントリー部門責任者に。1970年死去。葬儀の際ミュージック・ロウは故人の追悼のため封鎖された。
  13. ^ 作曲者にノーマン・ペティも名を連ねるが原文に基づいた。ペティのこの作曲に対する関与は懐疑的な意見が多い。
  14. ^ ジェリー・アリソンは後のインタビューで「その時は誰がブラッドリーで誰がコーエンなのか分りませんでした」と答えている。表現が曖昧なのはそのため。
  15. ^ 人々をハッピーにさせる音を奏でる、という意味が込められていた
  16. ^ Cindy Louは ホリーの姪の名前
  17. ^ Peggy Sue Gerron(1940〜2018)は当時のジェリー・アリソンのガールフレンド。後二人は結婚する。
  18. ^ エレクトリック・ギターに複数のピック・アップがマウントされる場合、リズム/ソロの切り替えスイッチがボディ・トップに搭載される
  19. ^ Dean Barlow & the Crickets 1953年MGMから「Milk and Gin」でデビュー、同年Jay-Deeへ移籍。1954年Beaconリリース「Be Faithful」がヒット。1955年メイン・ヴォーカルDean Barlowがソロに転向。
  20. ^ バディのキャリア中、他名義のレコード制作はこの3枚のみ
  21. ^ Ivan 「Real Wild Child /Oh You Beautiful Doll」Coral 9-62017 1958年7月11日発売
  22. ^ Lou Giordano 「Stay Close To Me /Don't Cha Know 」Brunswick 9-551151959年2月発売
  23. ^ Acuff-Rose Music 1942年Roy Acuff、Fred Roseの共同によりテネシー州ナッシュビルに設立された音楽出版社。作曲家に対する誠意をモットーとし、契約や法律に無知な作家に対する不当な搾取が横行していた当時の音楽ビジネス界に一石を投じる。1954年フレッド・ローズ死去、息子ウェズリーが社長に就任。
  24. ^ Waylon Jennings 「Jole Blon /When Sin Stops 」Brunswick 9-55130 1959年5月発売
  25. ^ ピディアン・テンプルは1927年友愛団体「ナイツ・オブ・ピティアス」の集会場所としてN.Yに建造されたビルディング。1941年からデッカがスタジオとして所有。広いフロアと高い天井を持つ講堂をスタジオに改造したため反響の強いライブな環境を特徴とした。
  26. ^ Dick Jacobs(1928〜1988)バンドリーダー、作曲家、アレンジャー、A&Rマン。1950代から60年代にかけ主にデッカ系列の録音に携わった。「Main Title」「Molly-O」 (共に1956年)のヒット曲を持つ。 Buddy Hollyの他 Jackie Wilson 、Bobby Darin の録音をサポート。 この日(10月21日)自己のオーケストラを率いプロデュース、編曲を担当した。
  27. ^ この項正確な日時は不明。前後関係から1958年暮れの出来事と思われる。関係者のほとんどが故人となった現在、特定の人物を中傷する目的は無い。個々の視点により見解は分かれる。All Musicではロイヤリティに関し「当時の音楽界でよく行われた悪しき慣習」としつつペティによるバディの成功への貢献を最大限に評価している。
  28. ^ N.Yグリニッチビレッジ11番街5丁目。英語圏での「アパート」は日本におけるマンション規模の住宅にあたる。
  29. ^ ギブソン社製アコースティック・ギターJ-200
  30. ^ 1957年9月オクラホマで録音されたのは「メイビー・ベイビー」のためペティの記憶違いと思われるが原文をそのまま引用した
  31. ^ Tommy Allsup (1931〜2017) オクラホマ生まれ。1958年7月バディ・ホリーの録音に参加しキャリアをスタート。1960年代以降セッシュン・ミュージシャンとしてRonnie Smith, Roy Orbison, Willie Nelsonらの録音に参加。The Ventures 「Guitar Twist」の作曲者としても知られる。
  32. ^ Carl Bunch (1939〜2011) テキサス州ビッグスプリング生まれ。キャリア初期「Ronnie Smith and the Poor Boys」に在籍。1956年ノ・ヴァ・ジャック・スタジオ録音の際バディと知己を得る。1960年代以降Bob Osburn バンドを経てHank Williams Jr、Roy Orbisonらと共演。晩年バディ・ホリーのメモリアル式典に出席した際自ら「凍傷したクリケット」とサインした。
  33. ^ Ritchie Valens, J.P. “The Big Bopper”, Dion and the Belmonts, Frankie Sardo
  34. ^ 1933年アイオワ州クリアレイクに開業した音楽施設。2,100の客席と広いダンスフロアを持つ。2009年ロックの殿堂指定歴史的建造物。1979年から毎年2月に追悼コンサートが催されている。
  35. ^ これに対し当局は不慮の事故に際し親族への連絡を優先にし、それまでは実名報道を控える方針を決める。
  36. ^ 煩雑を避ける為「Buddy Holly」「The Crickets」名義を区別せず記載した。4曲入りEP、再発盤、1970年以降のシングルは割愛。バディの死後Coral、Libertyからリリースされた(バディ不在の)クリケッツのシングルは除外した。
  37. ^ 1976年7月1日ポール・マッカトニーはバディ・ホリーの楽曲著作権を買い取る
  38. ^ 原則としてリリース国を表記。複数国発売の場合ミュージシャンの出身国を優先した。
  39. ^ Phil Ochsはアメリカ出身。カーネギーホールのライブ盤はカナダA&Mからリリースされた。
  40. ^ 『Gunfight at Carnegie Holl』収録
  41. ^ 『Oh Buddy Holly』収録
  42. ^ 『Rubettes』収録
  43. ^ 『Step Two』収録
  44. ^ 『Are You Ready For The Country』収録
  45. ^ エディ・コクランはアメリカ出身。本トラックは1959年録音、当時未発表となっていたが1966年英リバティーからシングルカットされた。
  46. ^ 1955年4月23日アデア・ミュージックでセールスマン、クライド・ハンキンズからレス・ポールを下取りにしストラトキャスターを305ドルで購入
  47. ^ ギターのネックには弦の張力による反りが生じるため指板とネックの間にトラスロッド(金属製の棒)を仕込みヘッドもしくはエンド側から調整を行う
  48. ^ FAOSA 他の愛用者にはロイ・オービソンフィデル・カストロなどが知られる

出典

  1. ^ a b c d Eder, Bruce. Buddy Holly | Biography & History - オールミュージック. 2021年7月22日閲覧。
  2. ^ Tobler, John (1979). The Buddy Holly Story. Beaufort Books. ISBN 0-8596-5036-7 
  3. ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Buddy Holly”. 2013年5月26日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 「THE BUDDY HOLLY STORY」John Beecher/Malcolm Jones共著1979年MCA原盤 LP
  5. ^ a b c d e f g h JACK HODJIN BOOKS「The True King Buddy Holly」2017年
  6. ^ Elvis Presley & Buddy Holly …Contrasts and Comparisons
  7. ^ a b c d 45cat.com Buddy Holly - Discography
  8. ^ Buddy Holly and the Crickets
  9. ^ a b musicvf.com/ Buddy Holly Top Songs
  10. ^ Discovermusic.jp/バディ・ホリー VS ボビー・ダーリン「Early In The Morning」
  11. ^ beatlesmagazineuk.com/the influence of buddy holly on the beatles
  12. ^ John Lennon on Buddy Holly
  13. ^ ザ・ローリング・ストーンズ全米最初のシングル「Not Fade Away」はボ・ディドリーを取り入れたバディ・ホリーのカヴァー
  14. ^ コオロギから生まれたカブトムシ
  15. ^ Buddy Holly remembered NME
  16. ^ Duluth Armory Buddy Holly Performance Inspired Bob Dylan
  17. ^ a b BUDDY HOLLY A COLLECTORS GUIDE Bill Griggs & Jim Black共著 RED WAX PUBLISHING 1983
  18. ^ a b 45cat
  19. ^ buddy the musical.com
  20. ^ Buddy Holly’s Les Paul
  21. ^ Buddy Holly, The Crickets Guitarist Gear
  22. ^ Buddy Holly’s glasses, lost since his death in 1959, are found in Mason City, Iowa
  23. ^ The Strange Case of Buddy Holly's Final Pair of Glasses






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