ディオゲネス (犬儒学派) 生涯

ディオゲネス (犬儒学派)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/08 10:25 UTC 版)

生涯

「ディオゲネスは銀行家(Τραπεζίτης:トラペジテス)のヒケシオス(Ικέσιος)の子でシノペの人。彼の父親は市(ポリス)の公金を扱う銀行家(έπιµελητής:監督者)であったが、“通貨(ノミスマ)を変造(パラハラクシス)した(παράχαράξαντος τό νόμισμα)”ので、ディオゲネスは追放された。」(二○・一)

ディオゲネスは、両替商ヒケシオスの子としてシノペに生まれた。逸話によって様々であるが、彼と父は通貨の鋳造ないしそれに関わる仕事を行っていたと考えられる。父の手伝いをしていたとも、ディオゲネスが通貨鋳造を行う職人たちのまとめ役(監督役:έπιµελητής)だったとも言われている。また父がシノペの経済の中枢とも言える貨幣一般を取り仕切る立場(監督役:έπιµελητής)だったとも言われる。シノペに居た頃のディオゲネスは、このような要職に就いていたことから経済的に豊かで地位もそれなりにあった立場の人間であったことがうかがえる。シノペはギリシア本国からは離れたアナトリア半島に位置する都市国家であったため、常に陸続きのペルシャの太守(サトラプ)たちとの摩擦に悩んでいる立地であった。

発掘される貨幣を見ると、明らかにシノペの信用を傷つけるような贋造貨幣が多く出土している。中には素人が鋳造した粗末なものもある。だが、シノペの貨幣の裏に、ヒケシオスとディオゲネスのイニシャル(“ΙΚΕΣΙΟ”、もしくは“ΔΙΟ”の文字)ではなくペルシャ傘下のカッパドキア太守(サトラプ)であるダタメス(ΔΑΤΑΜΑの文字)、あるいは息子のシシュナスの名前が刻まれたものが存在する。敵国からの偽造通貨工作をうけて、侵略の危険と常にとなりあわせであった。そして出土した貨幣には独特な傷がつけられていた。金メッキをした贋金であるかどうかを判断するために鏨痕を付ける方法があった。贋金であることが判明した場合、銀行にもってゆくとそれと同じ金額の貨幣と交換され、回収されたと言う。

おそらくは、その行為が「“通貨(ノミスマ)を変造(パラハラクシス)した(παράχαράξαντος τό νόμισμα)”」と言う行為だと推察できる。ディオゲネス(ないしヒケシオス)は通貨に「傷をつけ(パラハラクシス)」贋金かどうかの判断をするために「通貨を変造」した。しかし、これがおそらくは敵の知れることとなったために、贋造の罪といっしょくたに告訴されてしまった。ディオゲネスは国外へ逃れたが、父ヒケシオスは獄死したとされる。

国外追放後はアテナイに定住し哲学者となるが、最低でも55歳にはなっていた彼にとっては精神的にも肉体的にも辛い時期であったと思われる。国家の要職にありながら、市民権と地位、財産、家族といった一切を失った流浪の旅は厳しかった。裕福な市民ならば奴隷(ないし従者)をつれているものであったが、共に旅をするべく連れてゆく従者の数も多くなかったと思われる。

この流浪の旅の中で起こったエピソードが逸話として残っている。ディオゲネスに追従していた最後のひとりの従者(奴隷)であるマネスが突如姿を消してしまった。困窮と悲惨のドン底にあった主人を捨ててしまったのだ。周囲に居た人々が、ディオゲネスを哀れに想い捜索をしようとするが、ディオゲネスが皆を止めて言った。「おかしな話だよ、マネス(奴隷)のほうはディオゲネス(主人)なしでも生きてゆけるが、ディオゲネス(主人)のほうはマネス(奴隷)なしにはやっていけないとすれば」と答え、捜索を無用とした。奴隷にまで見捨てられ天涯孤独の人生において彼自身の哲学の原点の萌芽が見てとれる。アリストテレスの甥であり、二代目リュケイオン学頭であるテオフラストスが『メガラ誌』の中でこう述べている。「ネズミが寝床を求めることも無く、暗闇を恐れることも無く、美味美食と思われるものを欲しがりもせず走り廻っているのを見て」見出すに至ったとある。

その後アテナイに到着したディオゲネスは「異邦人(クセノス)」として、アテナイ人に遇される。しかし、それは最初だけでありディオゲネスは当初神殿などを間借りしてホームレスのような生活を送っていたとされる。「アテナイ人は自分のために住処をしつらえてくれている」という本人の言葉通りだったのだろう。

しかし、それでも50を超える年齢と施設の管理人たちの文句や、嫌がらせをするものたちもあったのか小屋を建ててもらおうと知人を頼ることにした。「ある人に手紙を出して、自分のために小屋をひとつ用意してくれるように」と手紙を出した。しかし、なかなか作ってくれないため「メトロオンにあった甕(ピトス)を住居として用いるようになった」。その甕はアテナイ人の若者たちによってある日壊されてしまう。だが、アテナイ人はその若者を鞭打ちにし罰した後に代わりの甕を用意してくれたと言う。「彼はアテナイ人たちによって愛されていた」とある。

こうしてアテナイに定住したディオゲネスは哲学者として活動を行う。そのスタイルはかつてのソクラテスが行ったように辻説法や対話といったものだった。彼の珍妙なキャラや行動に反して、決して不条理に屈しない姿から……次第に彼は有名人になっていた。彼もいくつか書物を著していたそうだが、散逸してしまっている。彼に関する本としては、後にキュニコス派のメニッポスが著した『ディオゲネスの売却』という本があった。アリストテレスの甥であり、リュケイオンの二代目学頭であるテオフラストスが持っていたとされる『ディオゲネス語録集』などがあった。これらは後のディオゲネス・ラエルティオスの著作「哲学者列伝」における「ディオゲネス伝」を作成する際の資料にもなっていたとされるが、現在は散逸してしまっている。その後、彼は奴隷商によって誘拐され奴隷として売りに出されてしまう。これにより、コリントス人のクセニアデスの奴隷として彼の家で生活することになる。ディオゲネスは家事全般や子供の教育などをメキメキとこなしたためにクセニアデスは「福の神が舞い込んだ!」と喜んだとされる。

最期に関しては、はっきりとした逸話は残っていない。ディオゲネスはアレクサンドロス大王と同じ頃死んだ。死因はタコを食べて当たったためとも、に足を噛みつかれたためとも、自分で息を止める修行をしたためとも言われている。


  1. ^ ディオゲネス・ラエルティオス (1972) [1925]. "Διογένης (Diogenes)". Βίοι καὶ γνῶμαι τῶν ἐν φιλοσοφίᾳ εὐδοκιμησάντων [Lives of eminent philosophers]. Volume 2. Translated by Robert Drew Hicks (Loeb Classical Library ed.). Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press. ISBN 0-674-99204-0. Retrieved 2010-09-14. Ⅵ:32
  2. ^ 藤田祥平「“壺男”としてブームを起こした『Getting Over It』は何をプレイヤーたちに示したかったのか? 絶望の放物線が重なる“先”を今振り返る」『電ファミニコゲーマー』、2019年7月10日。2023年8月15日閲覧。


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