ウィリアム・パルトニー (1731-1763)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 14:04 UTC 版)
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ウィリアム・パルトニー(後の初代バース伯爵)と妻のアンナ・マリア・ガムリー(Anna Maria Gumley、ジョン・ガムリー娘)の1人息子として生まれた[2]。1740年から1747年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、翌年にグランドツアーに出た[2]。彼はジョン・ダグラスとともにライプツィヒに向かった後、1749年にパリで両親に会い、続いてトリノに向かった[2]。
1754年、オールド・サラム選挙区で出馬して庶民院議員に当選、1761年まで同選挙区選出の議員として在職した[3]。1761年、ウェストミンスター選挙区に鞍替えして当選、1763年に死去するまで庶民院議員を務めた[1]。パルトニーは1760年に寝室侍従長に任命され[2]、1763年1月から2月までは国王ジョージ3世のエー=ド=カンを務めた[4]。
1759年、父のバース伯爵は第85歩兵連隊を招集、パルトニーはその連隊に入隊した[2]。彼は1761年2月に連隊とともにベル=イル占領に参加、11月にポルトガル王国に移住した[2]。1763年にイングランドへの帰路に着くが、道中のマドリードで熱病にかかり、未婚で子供のないまま死去した[5]。その2か月後にウェストミンスター寺院に埋葬された[4]。父のバース伯爵もわずか1年後に死去、所有した爵位は消滅した[6]。
脚注
グレートブリテン議会 | ||
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先代: ミドルセックス伯爵 サイモン・ファンショー |
庶民院議員(オールド・サラム選挙区選出) 1754年 - 1761年 同職:トマス・ピット・オブ・ボコノック 1754年 - 1756年 サー・ウィリアム・カルバート 1756年 - 1761年 |
次代: トマス・ピット・オブ・ボコノック ホウェル・グウィン |
先代: ジョン・クロス エドワード・コーンウォリス |
庶民院議員(ウェストミンスター選挙区選出) 1761年 - 1763年 同職:エドワード・コーンウォリス 1761年 - 1762年 エドウィン・サンズ 1762年 - 1763年 |
次代: エドウィン・サンズ ワークワース男爵 |
公職 | ||
新設官職 | 寝室侍従長 1760年 - 1763年 |
次代: ウィロビー・ド・ブルック男爵 |
- ^ a b “Leigh Rayment - British House of Commons, Westminster”. 2009年7月22日閲覧。
- ^ a b c d e f Sir Lewis Namier, John Brooke, ed (2002). The House of Commons, 1754-1790. vol. I. London: Secker & Warburg. pp. 339–340
- ^ “Leigh Rayment - British House of Commons, Old Sarum”. 2009年7月22日閲覧。
- ^ a b “ThePeerage - William Pulteney, Viscount Pulteney”. 2006年12月26日閲覧。
- ^ Conolly, Matthew Forster (1866). Biographical Dictionary of Eminent Men of Fife of Past and Present Times. Cupa, Fife: John C. Orr. p. 148
- ^ Burke, John (1831). A General and Heraldic Dictionary of the Peerages of England, Ireland, and Scotland. London: Henry Colburn and Richard Bentley. p. 442
- 1 ウィリアム・パルトニー (1731-1763)とは
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