アレクサンダー・ハミルトン 生涯

アレクサンダー・ハミルトン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 14:35 UTC 版)

生涯

アレクサンダー・ハミルトン
アメリカ合衆国10ドル紙幣(SERIES 2004A)。アレクサンダー・ハミルトンの肖像画は、1805年に画家ジョン・トランブルが描いたものを元にしている。

生い立ちと初期の経歴

ハミルトンは英領西インド諸島ネイビス島に生まれる。父親はスコットランドの地主の四男だが、ハミルトンが生まれたときはカリブ海の小さな島の一商人にすぎず、しかものち破産し零落していく。母はフランスのユグノーの子孫という。アメリカ合衆国の「建国の父」たちは皆、成功した入植者からの名門富裕層の出であったが、誇るべき家柄も無く内縁関係の両親の間に生まれたハミルトンは例外とも言える存在であった。

1768年に兄とともに孤児となり、ニューヨーク商人のクルーガーとビークマン所有のセント・クロイ島にある店で働きはじめ、4年後には店主に代わって店を任されることもあり、その経営能力は高く評価されていた。1771年にセント・クロイ島で発行されている新聞に自作の詩を掲載され、文才の片鱗を示す。その翌年に、ハリケーン来襲を報じた手紙が新聞記者に優れた文章として認められ、『ザ・ロイヤル・ダニッシュ・アメリカン・ガゼット』誌に掲載された。店主と親類縁者の援助により、1773年よりニューヨーク市のキングズカレッジ(現コロンビア大学)に入学し、行政学・政治学を学ぶかたわら、歴史・文学・政治哲学などの広い分野にわたる読書を始めた。この偶然と幸運で貧しい一苦学生に過ぎなかったハミルトンは自らの天賦の才を発揮できる好機を天から授かったのである。

1774年サミュエル・シーバリーの大陸会議非難を反駁した論文『大陸会議の措置に関する敵の中傷に対し、その措置を全面的に擁護す』を公刊。これは独立革命に関してハミルトンが執筆した最初の公的文書である。1775年2月、さらに大陸会議を擁護し、愛国派の見解を表明した『その農民の見解を論駁す』を公刊。同年6月、『ケベック法に関する所見』を発表し、イギリス本国が植民地支配を強めるためにカナダのカトリック教徒を利用する計画があることを批判。10月、大衆の印刷業者への暴行を非難。

1776年3月14日、ニューヨーク植民地砲兵中隊を指揮する大尉に任命され、独立戦争に従軍、幾多の会戦に参加して軍人としても優れた才能を発揮した。1777年からジョージ・ワシントン総司令官の副官に任命され、中佐として軍務に奔走するかたわら、ヒュームホッブズなどの読書と研究に努めた。1778年に『プブリウス書簡』を新聞紙上に発表し、軍需品納入をめぐる不正事件を摘発し、大陸会議の欠陥もあわせて批判する。1779年12月から翌年の3月にかけて、独立運動の指導者に書簡をおくり、その中ですでに合衆国銀行設立の構想を立てている。1781年7月12日から4回にわたって連載された論文『大陸主義者』では、強力な中央政府樹立の必要を説いた。10月14日にヨークタウン陥落の陣頭指揮をとり、10番堡塁をおとし勝利している。

軍務を解かれ1782年から弁護士開業を目指し、ブラックストーングロティウス、プッフェンドルフについて勉強する。4月18日から新聞掲載された『大陸主義者』の続編で、通商規制の必要を説く。7月22日にニューヨーク邦大陸会議議員に選出され、そこで大陸会議の課税権強化を提唱。1784年1月からの『フォーションからの書簡』で、ニューヨーク邦におけるイギリス忠誠派への不当な処置を批判した。

1786年ニューヨーク邦議会により、アナポリス会議の委員に選出され、フィラデルフィアに新しい議会を開催するよう各邦に要望した声明文を起草。1787年3月ニューヨーク邦議会により憲法制定会議(連合規約改正のための特別会議、フィラデルフィア憲法制定会議)への代表として派遣され、9月17日にアメリカ合衆国憲法の草稿を作成し、ついで憲法草案に署名をする。10月27日からジェームズ・マディソンジョン・ジェイと協力して翌年5月28日までに『ザ・フェデラリスト』論文を執筆し新聞紙上等に発表して、合衆国憲法批准を促進した。1789年9月11日、ワシントン内閣の財務長官に任命される。

1790年から1791年までにハミルトンによって連邦議会に提出された報告書は、《公信用》《未占有地》《蒸留酒税》《国立銀行》《貨幣鋳造所設立》《製造業》と実に多種多様。一方「マリア・レイノルズ事件」で不倫が暴露されたり、公債操作による不当利益獲得の疑惑が取りざたされ、トーマス・ジェファーソンをはじめとする政敵との確執が強まる。1792年にハミルトンが主導して導入した蒸留酒税によって、1794年に発生したウィスキー税反乱においては、諸州の民兵隊からなる1万2000の連邦軍に文民顧問として帯同し、鎮圧する。イギリスとの妥協の一環として1795年に結ばれたジェイ条約の正当性を『カミュラス』論文で擁護し、連邦議会に批准させた。この年に財務長官を辞任している。1798年から陸軍検閲総監として、新しく編成された連邦軍の軍制・兵制確立を遂行。1803年には弁護士としての名声は最高潮に達した。

しかしながら、出自のハンディは初代大統領ジョージ・ワシントンという後盾の亡き後、ハミルトンの人生を暗いものにしていく。連邦党の党首でありながら、大統領になる政治状況は生まれず、また政治的な判断で往年の鋭さはなく迷走の迷路に陥ったようであった。

マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立

アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘(1804年)

ハミルトンは1794年にマリア・レイノルズ事件でその名声が傷つき、政治的ダメージを受けることとなる。マリアの夫ジェームズはハミルトンとマリアとの性的関係を認めていたにもかかわらず、ハミルトンを恐喝し金銭を要求した。ジェームズ・レイノルズは偽造の罪で逮捕されたとき、ジェームズ・モンローを始めとする数名のリパブリカン党員と連絡を取った。彼らはハミルトンの元を訪れマリアとの関係を問いただしたが、ハミルトンは関係を認めながらも無罪であることを強調した。モンローは事の詳細を公表しないことを約束したが、トーマス・ジェファーソンにはそのつもりがなかった。ハミルトンは情事の公表を強いられ、それは家族および支持者に衝撃を与えた。噂された不義によるモンローとの決闘は前上院議員のアーロン・バーによって避けられた。

皮肉にもバーは後のマリア・レイノルズの離婚訴訟において、いくつかの疑問を提示することでハミルトンを元気づけた。しかしながら、ハミルトンとバーのニューヨーク法曹界における関係は、憎悪であった。実際彼らの家族はしばしば関係することがあった。バーが1791年の上院議員選でハミルトンの義父フィリップ・スカイラーを破ったとき、ハミルトンはバーを陥れるための秘密工作を始めた。

ハミルトンの1795年の財務長官辞任は公の活動からの引退とはならなかった。弁護士業の再開でハミルトンは政界に対してアドバイザーおよび友人として関係を保っていた。ハミルトンはワシントンの退任演説に影響を及ぼしていたと考えられている。ハミルトンと、ワシントンの後任ジョン・アダムズとの関係は緊張していた。連邦党の大統領候補としてアダムズの指名を妨げようとするハミルトンの工作は党を分割し、1800年の大統領選でジェファーソン派のリパブリカン党員の勝利に寄与した。

ジェファーソンの大統領就任後、バーではなくハミルトンの起用を選択したことはバーに対するハミルトンの最初の打撃だった。バーは1804年にニューヨーク州知事選に連邦党から出馬しようとしたが、無所属候補として出馬した。ある新聞がチャールズ・D・クーパーのハミルトンによるものと思われる「卑劣な見解」を掲載した。政治的名誉回復の機会と考えたバーはハミルトンに対して謝罪を要求した。ハミルトンはバーが新聞の言及した事実を証明できなかったとして要求を拒絶した。

バーとハミルトンの決闘は、三年前にハミルトンの息子フィリップが父親の名誉を守るために決闘を行い敗れた場所と同じニュージャージー州ウィホーケンの岩棚の上で1804年7月11日に行われることとなった。ハミルトンは息子の死から決闘に反対したが、決闘は夜明けに始まりバーはハミルトンの下胸部を撃った。ハミルトンの銃弾はバーから外れたとも言われるし、銃が点火しなかったとも言われる。ハミルトンは翌日死去し、マンハッタンのトリニティ教会墓地に埋葬された。バーはハミルトンに対する殺人とその後の反逆裁判でニューヨークから逃亡し、1836年に死去した。


  1. ^ ハミルトンプロジェクト萬晩報、2006年04月23日






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