ヴェルフ7世
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| ヴェルフ7世
Welf VII.
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| トスカーナ辺境伯 スポレート公 |
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| 在位 | 1160年 - 1167年 |
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| 出生 | 1135年ごろ |
| 死去 | 1167年9月11/12日 シエーナ |
| 埋葬 | バイエルン、シュタインガーデン修道院 |
| 家名 | ヴェルフ家 |
| 父親 | トスカーナ辺境伯・スポレート公ヴェルフ6世 |
| 母親 | ウタ・フォン・シャウエンブルク |
ヴェルフ7世(Welf VII., 1135年ごろ - 1167年9月11/12日)は、トスカーナ辺境伯・スポレート公ヴェルフ6世と、ライン宮中伯ゴットフリート・フォン・カルフの娘ウタの一人息子。ヴェルフ家の一員であった。
生涯
父ヴェルフ6世はシュヴァーベン地方における一族の領地を相続し、その中にはアルトドルフ伯とラーフェンスブルク伯といった有力な領地も含まれていたが、ヴェルフ7世は父がシュヴァーベンに留まる間、イタリア領の管理に多くの時間を費やした。ヴェルフ家は父子ともドイツ王フリードリヒ1世を支持し、ヴェルフ7世は1154年から続くフリードリヒ1世のイタリア遠征に同行した。1160年、ヴェルフ7世は皇帝によってスポレート公に叙せられた。1164年から1166年にかけて、ヴェルフ7世は父とフーゴ・フォン・テュービンゲンの間で起こった有名なシュタウフェン家・ヴェルフ家の争いの中心人物となり、皇帝自らこの争いを解決した[1][2]。
ヴェルフ7世は1167年、フリードリヒ1世による教皇アレクサンデル3世に対する遠征に参加した。ローマ包囲戦の成功後、8月2日に激しい雷雨が皇帝の陣営を襲い、甚大な被害をもたらした。数日後、軍隊内で疫病が流行した。この疫病はしばしばマラリアと同定されてきたが、感染拡大の速さと膨大な死者数から、マラリアが原因であるとは考えにくい。この疫病は、おそらく赤痢菌によって引き起こされたと考えられる[3][4]。軍の迅速な撤退も疫病の蔓延を食い止めることはできなかった。ヴェルフ7世は9月12日、シエーナでこの病により亡くなった。
ヴェルフ7世はバイエルンのシュタインガーデン修道院に埋葬され、後に父ヴェルフ6世もそこに埋葬された[1]。ヴェルフ7世(そしてフリードリヒ4世)の死により、従兄弟の皇帝フリードリヒ1世はシュヴァーベン地方で直接権力を行使し、ロンバルディア地方のコムーネの自治を認めることになった[2]。
脚注
- ^ a b Zotz, Schmauder & Kuber 2020.
- ^ a b Freed 2016, pp. xx–xxi.
- ^ Herde 1991, p. 157.
- ^ Ehlers 2008, p. 213.
参考文献
- Zotz, Thomas; Schmauder, Andreas; Kuber, Johannes (2020) (ドイツ語). Von Den Welfen Zu Den Staufern: Der Tod Welfs VII 1167 Und Die Grundlegung Oberschwabens Im Mittelalter. Kohlhammer. ISBN 978-3-17-037334-1
- Freed, John B. (2016) (英語). Frederick Barbarossa: The Prince and the Myth. Yale University Press. pp. xx-xxi. ISBN 978-0-300-12276-3
- Herde, Peter (1991). Die Katastrophe von Rom im August 1167. Eine Historisch-Epidemiologische Studie zum vierten Italienzug Friedrichs I. Barbarossa. SB Wiss. Gesellschaft Frankfurt a. M. 27. Stuttgart. p. 157
- Ehlers, Joachim (2008). Heinrich der Löwe. Eine Biographie. München. p. 213
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