ヴェルフ7世とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヴェルフ7世の意味・解説 

ヴェルフ7世

(Welf VII. から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/16 03:01 UTC 版)

ヴェルフ7世
Welf VII.
トスカーナ辺境伯
スポレート公
在位 1160年 - 1167年

出生 1135年ごろ
死去 1167年9月11/12日
シエーナ
埋葬 神聖ローマ帝国
バイエルン、シュタインガーデン修道院
家名 ヴェルフ家
父親 トスカーナ辺境伯スポレート公ヴェルフ6世
母親 ウタ・フォン・シャウエンブルク
テンプレートを表示

ヴェルフ7世(Welf VII., 1135年ごろ - 1167年9月11/12日)は、トスカーナ辺境伯スポレート公ヴェルフ6世と、ライン宮中伯ゴットフリート・フォン・カルフの娘ウタの一人息子。ヴェルフ家の一員であった。

生涯

ヴェルフ6世シュヴァーベン地方における一族の領地を相続し、その中にはアルトドルフ伯とラーフェンスブルク伯といった有力な領地も含まれていたが、ヴェルフ7世は父がシュヴァーベンに留まる間、イタリア領の管理に多くの時間を費やした。ヴェルフ家は父子ともドイツ王フリードリヒ1世を支持し、ヴェルフ7世は1154年から続くフリードリヒ1世のイタリア遠征に同行した。1160年、ヴェルフ7世は皇帝によってスポレート公に叙せられた。1164年から1166年にかけて、ヴェルフ7世は父とフーゴ・フォン・テュービンゲンの間で起こった有名なシュタウフェン家・ヴェルフ家の争いの中心人物となり、皇帝自らこの争いを解決した[1][2]

ヴェルフ7世は1167年、フリードリヒ1世による教皇アレクサンデル3世に対する遠征に参加した。ローマ包囲戦の成功後、8月2日に激しい雷雨が皇帝の陣営を襲い、甚大な被害をもたらした。数日後、軍隊内で疫病が流行した。この疫病はしばしばマラリアと同定されてきたが、感染拡大の速さと膨大な死者数から、マラリアが原因であるとは考えにくい。この疫病は、おそらく赤痢菌によって引き起こされたと考えられる[3][4]。軍の迅速な撤退も疫病の蔓延を食い止めることはできなかった。ヴェルフ7世は9月12日、シエーナでこの病により亡くなった。

ヴェルフ7世はバイエルンのシュタインガーデン修道院に埋葬され、後に父ヴェルフ6世もそこに埋葬された[1]。ヴェルフ7世(そしてフリードリヒ4世)の死により、従兄弟の皇帝フリードリヒ1世はシュヴァーベン地方で直接権力を行使し、ロンバルディア地方のコムーネの自治を認めることになった[2]

脚注

  1. ^ a b Zotz, Schmauder & Kuber 2020.
  2. ^ a b Freed 2016, pp. xx–xxi.
  3. ^ Herde 1991, p. 157.
  4. ^ Ehlers 2008, p. 213.

参考文献

先代
ヴェルフ6世
トスカーナ辺境伯
スポレート公
1160年 - 1167年
次代
ヴェルフ6世



英和和英テキスト翻訳

英語⇒日本語日本語⇒英語
  •  ヴェルフ7世のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヴェルフ7世」の関連用語

ヴェルフ7世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヴェルフ7世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヴェルフ7世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS