トダ・デ・パンプローナとは? わかりやすく解説

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トダ・デ・パンプローナ

(Toda of Pamplona から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 23:29 UTC 版)

トダ・アスナーレス・デ・パンプローナスペイン語:Toda Aznárez de Pamplona, ? - 958年10月15日)は、パンプローナサンチョ・ガルセス1世の妃。931年より息子ガルシア・サンチェス1世が幼年の間、パンプローナ王国の摂政をつとめた。トダはパンプローナの前王家であったイニゴ・アリスタ家の子孫である。


  1. ^ トダおよびそのきょうだいとアブド・アッラフマーン3世との関係は 『ロダ写本』の中のパンプローナ王の系図に基づいており、それによるとサンチョ、トダおよびサンチャはオネカとアスナール・サンチェスとの最初の結婚で生まれ、アブド・アッラフマーン3世はオネカと後ウマイヤ朝のエミール、アブド・アッラーフとの2度目の結婚で生まれたムハンマドの息子であるという。しかし、結果として得られた時系列は、息子のガルシアの誕生時にトダが信じられないほど年をとっている必要があるため、否定された。ほとんどの歴史家は、『ロダ写本』がオンカの結婚の順序を逆転させたと結論付けているが、この別の時系列にはそれ自体に問題がないわけではない。Arturo Cañada Justeは最近、別の間違いが問題の根底にあることを提案した。『ロダ写本』は、アスナール・サンチェスの妻であるオネカ・フォルトゥネスとアラゴン伯アスナール・ガリンデス2世の妻である叔母のオネカ・ガルセスを部分的に混同していた、ということである。オネカ・ガルセスがアブド・アッラーフの妻でもあった場合、時系列の問題は解決し、アブド・アッラフマーン3世はトダとそのきょうだいの甥ではなく又従兄弟となる[1]
  1. ^ Cañada Juste 2013.
  2. ^ Collins 1998, pp. 79–92.
  3. ^ a b Cantera Burgos 1966, p. 363.
  4. ^ Hajji 1970, p. 74.
  5. ^ Nykl 1974, pp. 6–7.
  6. ^ Vallvé Bermejo 1992, p. 177.
  7. ^ Hajji 1970, p. 75.
  8. ^ Guichard 2008, p. 101.
  9. ^ Azizur Rahman 2001, p. 147.
  10. ^ Hajji 1970, p. 76.
  11. ^ Jayyusi 1992, p. 37.


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