Lin Fengxiangとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > Lin Fengxiangの意味・解説 

林鳳祥

(Lin Fengxiang から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 09:57 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

林 鳳祥(りん ほうしょう、Lin Fengxiang1825年 - 1855年)は、太平天国の指導者の一人。チワン族出身。

広西省潯州府桂平県出身。拝上帝会に加入し、金田蜂起に参加した。太平天国軍にあって常に先鋒を務め、多大な功績をあげた。1853年1月武昌に入ると天官副丞相に任命された。3月の南京入城後は、揚州攻略戦に参加した。

1853年5月、太平天国は林鳳祥・李開芳吉文元北伐を命じた。目標は天津占領で、その後援軍を待って北京を攻略するという作戦であった。北伐軍は揚州を出発後、黄河を渡り山西省をへて直隷省に入った。北伐軍が北京に近づくと、北京の人々は恐怖におののいた。この様子が天京に届き、林鳳祥は靖胡侯に封ぜられた。年末に北伐軍4万人は天津付近に駐留していたが、は北京一帯に兵力を集中させるようになり、加えて南方人は北方の厳冬に慣れていなかったこともあり、北伐軍は劣勢に立たされた。1854年、北伐軍は連鎮に退却したが、林鳳祥は援軍が山東省に来るとの報を聞き、李開芳の部隊を派遣して援軍を迎え入れさせようとした。しかし李開芳と援軍が合流する前に援軍は壊滅し、李開芳は高唐州に立てこもった。

清軍は連鎮と高唐州を分断して包囲したため、両軍は連絡が取れなくなり、糧食も不足するようになった。その間太平天国は援軍を再び送ったが、清軍に阻まれて北上することができなかった。1855年3月、清の将軍センゲリンチン(僧格林沁)が連鎮を攻め、林鳳祥は傷を負って捕えられ、北京に送られて処刑された。その後李開芳軍も壊滅し、太平天国の北伐は失敗に終わったのである。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「Lin Fengxiang」の関連用語

1
16% |||||

Lin Fengxiangのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



Lin Fengxiangのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの林鳳祥 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS