Jurakudaiとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > Jurakudaiの意味・解説 

聚楽第

(Jurakudai から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 01:21 UTC 版)

聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。前野長康が造営奉行を務めた。


  1. ^ 学習研究社編 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社、 1996年
  2. ^ 真田勘兵衛『本当に実在したの?絵画史料に描かれているような聚楽第天守』
  3. ^ 加藤繁生「聚楽第と二条城の縄張りについての試論」(『史迹と美術』907号 2022)
  4. ^ 『フロイス日本史』は「石壁の石は密接してはいないが、漆喰で接合されており、技術が優れ、壁が厚いために遠方からは石造建築と見誤るほどであった。」と記す
  5. ^ 古川匠らによる表面波調査の報告。
  6. ^ 『日本史』・「聚楽古城図」。
  7. ^ 『駒井日記』『フロイス日本史』及び政権側文書など。
  8. ^ 『時慶記』天正15年正月27日の条、「従法印有折紙、内野関白殿新殿号聚楽(内野の関白殿新殿を「聚楽」と号(なづ)く)、然は折紙に曰、聚楽首尾次第に行幸可被申候」とある。
  9. ^ 工事中の天正15年の文書(『築山上半町神田家文書』)には「聚楽御城」の語も見られる。
  10. ^ 北山第、室町第はともに「てい」と読んだとされる。
  11. ^ 初見は『多聞院日記』天正14年2月27日の条
  12. ^ 「平成9年度京都市内遺跡試掘調査概報」(京都市文化市民局)。
  13. ^ 2003年の修理の際に飾り金物から「天正」の銘が発見された(京都府教育委員会『国宝重要文化財大徳寺唐門勅使門修理工事報告書』2003年)。加藤繁生は、この唐門について棟札に残された記述を読み解いて、聚楽東大手門門前に構えていた村上周防守頼勝の屋敷にあった「御成門(秀吉の訪問に備えた門)」との推測を述べている(「聚楽第余聞1 『国宝大徳寺唐門の素性』」『史迹と美術』905号、2020年所収)。
  14. ^ 『平成9年度京都市内遺跡試掘調査概報』(京都市文化市民局)。「検出された地山と新出水通との比高差が3.3mであり‥きわめて浅い。堀の幅に対して不釣り合いな深さであり、南の墓地付近で急激に落ち込むものと考えたい」と記す(報告者:馬瀬智光)。ただしここにあるように「深さ三間」(『兼見卿記』)の堀があったことは確認できていない。報告者が示す地層断面図の底部にわずかに聚楽土の層があるから、近年指摘のある「聚楽土の採掘跡」との説も無視できない。
  15. ^ 江戸末期に名倉希言が著した『豊公築所聚楽城址形勝』(天保14年)を始め、『京都坊目誌』(大正2年)・『京都府史蹟調査会報告』(西田直二郎、大正8年)も外濠跡としている。近年では森島康雄(元京都府埋蔵文化財調査担当者)、馬瀬智光(元京都市埋蔵文化財調査担当者)らも付近の埋文調査の結果などを根拠に同説を主張している。
  16. ^ 加藤繁生「聚楽第の石垣」『史迹と美術』837・840・843号、2013・2014年
  17. ^ 「京都市考古学資料 平成28年3月10日~4月10日」(京都市考古資料館)。「この一帯は現在の地形が周辺より凹んでおり、江戸時代後期から聚楽第外濠と考えられてきたが、探査では濠は確認されなかった。周辺の発掘調査でも浅い地点で地山が出ていることから、この地点は濠ではない可能性がある。」
  18. ^ 執筆に当たっては山科言経(やましな ときつね)に何度も相談をしている(『言経卿記』)。小瀬甫庵の『太閤記』にも引用されているが、この引用されたもののほうが群書類従本よりもオリジナルに近いと考えられる。現在、仁和寺本、押小路本、宮内庁書陵部本、内閣文庫本などの写本が遺る。
  19. ^ このほか、秀次一族の供養塔「悪逆塚」がある[[瑞泉寺 (京都市)|]]所蔵の「瑞泉寺縁起」には聚楽第の姿も描かれているが、江戸後期の作と考えられている。
  20. ^ 狩野博幸『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』(青幻社、2010年)
  21. ^ 聚楽第と同時には存在しないはずの二条城と伏見城が描かれており、17世紀初頭の景観に秀吉時代の景観をオーバーラップさせたものと見做せる。加藤繁生の研究では慶長16年から19年頃に描かれたものとする。
  22. ^ 石垣と堀に囲われた本丸跡では農夫が畑を耕し、北の丸跡では能興行が行われている。
  23. ^ 狩野博幸著『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』所収。京都府文化博物館「京を描く」展図録(2015年)所収
  24. ^ 桃山期の聚楽第図(現存しない)を参考に名倉希言自身の調査結果を加えたもの。聚楽第南西方面には外濠も描く。


「聚楽第」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「Jurakudai」の関連用語

Jurakudaiのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



Jurakudaiのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの聚楽第 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS