板倉重宗
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板倉 重宗(いたくら しげむね)は、江戸時代前期の譜代大名で下総関宿藩の初代藩主。京都所司代。板倉家宗家2代。父は板倉勝重、母は粟生永勝の娘。弟に重昌、重大がいる。
注釈
- ^ 里村玄陳の妻は資産家と推定される中江宗伯と先妻の娘で、宗伯の後妻である慶立とは血が繋がっていない。一方、北野休好は慶立の甥(妹の子)であるが交流はほとんどなかった上、生前の慶立が玄陳の妻に遺産を譲ることを町中に触れ回り譲状もあるのに、休好が慶立の遺産を自由に出来ると言い出したことに玄陳は迷惑と主張、重宗は玄陳の主張を認めた上で、譲状に書いてある「屋敷を売り慶立および彼女と宗伯の子勘兵衛を弔え」との遺言に従うべきとの判断を下した[21]。重宗が玄陳の主張を認めた根拠は譲状を重視した証拠主義にあり、これに基づき裁許を出して内済となるように方向性を示したのであるが、裁許が出ても内済にならず再度訴訟が出る場合もあった[22]。裁判説話集『板倉政要』や『板倉新式目』にも相続における譲状の重要性が記されているが、町年寄・五人組などに確認した方がより確かな譲状として優先されることも記されている[23]。
- ^ 美術史家五十嵐公一は山雪・伊織の裁判を調べ、当時の考えや推測なども交えた上で、重宗は借金を返済出来ない伊織に代わり山雪に返済を促すため伊織を留置、内済を望んでいたと推測している。しかし山雪が返済を拒み伊織自身が返済することを考えていたため、再度の裁判で山雪が留置することになった。また五十嵐は揚屋から山雪が息子の狩野永納へ出した年代不明の5月10日付の手紙にも注目、文章にある「夢で聞いた託宣の行方を調べるように告げ、春日大明神なら九条大御所様の御社に参って欲しい」という永納への伝言は、寛永9年(1632年)に春日大明神を勧請した九条家の屋敷鎮守社を指し、幸家へ助けを求める暗号を送ったのではないかとしている[24]。
- ^ 土居は山雪が投獄された件を著書『日本美術絵画全集 第12巻 狩野山楽・山雪』で書いていたが、根拠となる史料を示さないまま平成3年(1991年)に死去。山下は土居が調査ノートを寄贈した京都工芸繊維大学に向かい、附属図書館で『公事留帳』の表紙を写した写真が貼られた調査ノートを発見、平成25年の特別展覧会で『公事留帳』を紹介した。また山下が調査のため組織したチームのメンバーだった五十嵐は、『公事留帳』の記事で他に裁判に関わった絵師たちがいることも発見している。なお、『板倉政要』にも重矩に詐欺で死罪に処された絵師として山本友我と息子で儒学者山本泰順の名が記されている[44]。
出典
- ^ 三省堂編修所 2009, p. 115.
- ^ a b c d e f g h i j k 三百藩藩主人名事典二 1986, p. 129.
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