馬棱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 馬棱の意味・解説 

馬棱

(馬リョウ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 08:16 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

馬 棱(ば りょう、生没年不詳)は、後漢官僚は伯威。本貫右扶風茂陵県

経歴

馬援の族孫にあたる。幼くして父を失い、従兄の馬毅を頼って家業を手伝い、母を同じくする兄弟のように目をかけられた。馬毅が子のないまま死去すると、馬棱は3年の喪に服した。

建初年間、郡に仕えて功曹となり、孝廉に察挙された。建初末年に馬氏の一族は失脚したが、章帝は馬棱の行いの正しさをみて、馬棱を召還し、謁者に任じた。87年章和元年)、馬棱は広陵太守に転出した。ときに穀物が騰貴して民衆が飢えたため、馬棱は塩官を罷免するよう上奏し、貧者や痩せ衰えた人々に食糧を分与し、賦税を軽減し、湖をせき止めて墾田2万頃あまりを新たに開いた。広陵郡の官吏や民衆は馬棱の功績を石に刻んでたたえた。90年永元2年)、馬棱は漢陽太守に転じ、威厳のあることで知られた。大将軍竇憲が西方の武威郡に駐屯すると、馬棱は民衆に多額の賦課をかけて軍費を捻出し、竇憲のもとに送った。竇憲が失脚して自殺すると、馬棱は連座して罪に問われた。数年後、江南で多くの反乱が発生したため、馬棱は丹陽太守に任じられてその討伐にあたり、反乱者をみな捕らえて滅ぼした。会稽太守に転じて、やはりその統治の評判は良好であった。河内太守に転じた。永初年間、事件に連座して罪に問われ、家で死去した。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  馬棱のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「馬棱」の関連用語

馬棱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



馬棱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの馬棱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS