香西元秋
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 永正4年(1507年)6月24日 |
別名 | 孫六(通称) |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 細川政元→細川澄之 |
氏族 | 香西氏 |
兄弟 | 元長、元秋、元能、真珠院宗純 |
香西 元秋(こうざい もとあき)は細川京兆家の内衆。
概要
『後法興院記』明応4年(1495年)10月26日条によれば、元秋は兄の元長が山城守護代に任命されると、その翌月には兄とともに寺社領に立ち入り、五分一済の徴収を開始している。身延文庫本『雑々私要抄』紙背文書を見るに、元秋が紀伊郡の郡代・生夷景秀などの諸郡代と元長との間に位置し、香西氏の家政を執っていたと考えられる。また、「九条家文書」によると九条家の申し出を受け、同家領への半済停止を元長へ取り次いでいる。九条家との関わりは、元長が政元の養子である細川澄之(九条政基の実子)に与していたことと関連していると考えられる[1]。
永正4年(1507年)6月23日に元長が 家臣を使って主君の細川政元を暗殺すると(永正の錯乱)、元秋も兄に従った。ただし、『不問物語』では元秋と元能が主犯格であり、元長は暗殺の後に合流したという。翌24日には細川澄元邸を攻め、澄元や三好之長等を近江国に追いやったものの、京都百々橋での合戦で弟の元能とともに戦死した[1]。
脚注
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