蕭撻不也とは? わかりやすく解説

蕭撻不也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/08 09:30 UTC 版)

蕭撻不也(しょう たつふや、? - 太康元年6月7日[1]1077年6月29日))は、(契丹)の政治家は斡里端。

経歴

蕭孝穆の弟の蕭高九の孫にあたる。剛直な性格で知られた。咸雍年間、祗候郎君に補任された。太康元年(1075年)、彰愍宮使となり、道宗の娘の趙国公主耶律糺里を妻に迎え、駙馬都尉に任じられた。

太康3年(1077年)、同知漢人行宮都部署に転じた。北院宣徽使の耶律撻不也と交友関係があり、耶律乙辛に憎まれた。6月、道宗の廃立を計画したと誣告された。鞭打ちの拷問に耐えられず、偽りの自白をした。道宗に引見されて取り調べられたが、意識混濁の状態で答えることができず、そのまま処刑された。

乾統年間、蘭陵郡王に追封され、画像が宜福殿に飾られた。

脚注

  1. ^ 『遼史』巻23, 道宗紀三 大康三年六月乙酉条による。

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