荒木要平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/10 04:22 UTC 版)
あらき ようへい
荒木 要平 |
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生誕 | 1815年??月??日 岡山県浅口市金光町 |
死没 | 1875年2月18日(満60歳没) |
国籍 | ![]() |
別名 | 止信(名)/要平(通称) |
職業 | 剣客/武芸者 |
荒木 要平(あらき ようへい、1815年 - 1875年2月18日)は、岡山県浅口郡佐方[1]/占見新田[2](現・浅口市金光町佐方/占見新田)出身の剣客[1]、武芸者[2]。名は、「止信」[1]で、「要平」は通称[1]である。
来歴
早くから剣法に興味を持ち、岡山藩士根岸氏から戸田流剣法を学ぶ[1][3]。成業の後は、拳法を学ぶ[1]。帰郷の際、根岸氏の門人60人と離別の試合を行う[1]。試合は、朝から夕方にわたって行われたが[1]、要平は負けることが無かった[1]。
29歳の時、江戸で岡田重松より無念流を学ぶ[1][3]。江戸には6年余り留まり[1]、その間の門人は4,000人を数えた[1]。
明治8年2月18日死去。享年61。
エピソード
- 金玉力の鍛錬を行っており[3]、陰嚢は手の皮のように強靭となっていた[3]。その事が噂となっており、安政の時代、鴨方の庄屋塚村定次から力自慢を見せて欲しいとの頼みを受け[3]、要平の自宅玄関前で金玉の力試しをすることとなった[3]。庄屋が連れてきた若者6人と綱引きならぬ金玉引きが行われた[3]。若者達は懸命に引張ったが、力及ばず、ズルズル引張り上げられ、要平が勝利した[3]。
- 手で砂を掻き、足でハネ飛ぶ四つ足走法が達者であった[3]。備後国鞆の浦で沖仲仕たちと駆け足と四つ足走法で競争を行った[3]が、要平がゴールした際、駆け足の沖仲仕たちは、まだ半分しか達していなかった[3]。
脚注
参考文献
- 吉岡三平 監修『岡山人名辞典』 日本文教出版、1978年。
- 蓬郷巌 編『岡山の奇人変人』(岡山文庫) 日本文教出版、1977年。
関連項目
- 岡山県出身の人物一覧
- 四足走法
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