繆昌期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 10:04 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動繆 昌期(ぼく しょうき/びゅう しょうき、1562年 - 1626年)は、明代の官員。字は当時。東林党の初期の人物であった。
生涯
万暦41年(1613年)に50歳過ぎで科挙に合格して進士に及第し、庶吉士になった。後、翰林院検討に進んだ。翰林院で、同僚の美少年馮銓を強犯し、かたき同士になった。後、挺撃の案(太子時代の泰昌帝が命を狙われたとされる事件)を契機に多くの非難を受け、病を理由に官を去った。
天啓元年に復帰し、左賛善となり、諭徳に進んだ。楊漣が魏忠賢を弾劾したとき、楊漣の上疏は繆昌期が起草にあたったと密告する者があって、魏忠賢は楊漣等を恨んだ。繆昌期は恐れ、休暇を乞うて帰郷した。しかしすぐ楊漣等に連座し、郷里で逮捕された。まもなく獄で、拷問の末に刑死した。
崇禎帝から詹事および学士を追称されたが、諡はなかった。南明で弘光帝により文貞と諡された。
参考資料
- 『崇禎長編』
- 『明史』
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