教行寺 (奈良県広陵町)とは? わかりやすく解説

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教行寺 (奈良県広陵町)

(箸尾御坊 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/04 04:22 UTC 版)

教行寺
所在地 奈良県北葛城郡広陵町萱野652-1
位置 北緯34度33分55.7秒 東経135度44分59.4秒 / 北緯34.565472度 東経135.749833度 / 34.565472; 135.749833座標: 北緯34度33分55.7秒 東経135度44分59.4秒 / 北緯34.565472度 東経135.749833度 / 34.565472; 135.749833
山号 安静山
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 享徳24年(1475年
開基 蓮如
正式名 安静山教行寺
別称 箸尾御坊
法人番号 8150005005807
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教行寺(きょうぎょうじ)は、奈良県北葛城郡広陵町にある真宗大谷派の寺院。山号は安静山。本尊阿弥陀如来。別名「箸尾御坊」として知られる。

歴史

創建

1476年頃、本願寺八世の蓮如は、管領の細川勝元から摂津冨田(大阪府高槻市)に土地を与えられ教行寺を創建した。当時は冨田道場と呼ばれ、門前には寺内町が形成、北摂地域の布教の拠点となった。1532年に一向宗の弾圧によって冨田道場は焼き払われたが、1536年に再建が許されている。教行寺という寺名は、蓮如がこの寺で「教行信証」を書き写したことに由来する[1]

佐味田への移転

戦国時代に入ると、本願寺顕如が石山本願寺に籠って織田信長と戦い、教行寺三代の証誓もこの合戦に参加した。両者が和睦した後、顕如は紀州に移った。1580年、証誓は顕如とは別れて大和国の佐味田(河合町)に冨田教行寺を移転している。移転先に佐味田を選んだ明確な理由は不明である[2]。ただ、文明年間(1469~1487)にはすでに佐味田に教行寺系の寺院があったと記録され、一帯は一向宗の一大拠点となっていた。この流れで佐味田が移転先に選ばれたと推測されている[3]。元の摂津冨田は織田信長によって焼き払われており、証誓は教行寺の影響下のこの地域に移るしか選択肢がなかった[2]

その後、教行寺そのものは田原本、箸尾と移転、この佐味田教行寺は江戸時代末期まで箸尾教行寺の末寺となって、後に独立、現在に至る[3]

田原本村への移転

佐味田へ移転した教行寺は、門前にかなりの規模の集落を作り上げた。しかし佐味田は馬見丘陵の北西端に位置し、佐味田川との間の狭い傾斜地に位置していた。そのため、かつての冨田のような大規模な寺内町をつくることは不可能であった[4]

平野長泰は大和の田原本に5000石の所領を得ていたが、いずれ加増転封されると考えており田原本に陣屋を置かずに伏見伯耆の屋敷に住み、田原本には一度も足を運ばなかった。1600年に教行寺四世顕誓と会談し田原本の経営を任せることにしている[5]

1602年、平野長泰の誘いに応じた形で教行寺は田原本町に移転した。この移転は、平野氏の所領にある寺院のほとんどが浄土真宗であり、領内の寺院の動きを牽制したい平野氏と、それなりの規模の寺内町を欲した教行寺の利害が一致したことで実現したと考えられる[4]

教行寺は田原本に寺内町の建設を始めた。堂舎や冨田からの僧侶などのが住む屋敷を建設し、さらに付近から商工業者を誘致している。この教行寺寺内町の範囲は現在の田原本寺内町とほぼ一致している。しかし、次第に教行寺と平野氏との対立がみられるようになっていった。1614年には東本願寺の教如から田原本からの移転を命じられており移転後10年もしないうちに何らかの原因で不和が起きていたとみられる[6]

1628年に長泰が死去、1629年に息子の平野長勝が田原本に入った。1635年に長勝が田原本に陣屋を建設し始めたあたりには、両者の対立が表面化してきていた。教行寺が寺内町の役人の罷免権を持っており、町人たちも平野氏を差し置いて教行寺を領主のように扱っていたと記録されており、領主権の確立を目指した長勝との対立は避けられない状況であった[6]

箸尾への移転

1637年、教行寺は堂舎を取り壊して土地を平野氏に返還、再度佐味田へと戻った。やはり佐味田の土地が手狭であったことから郡山藩に移転を請願した。はじめは御所村への移転が提案されたが、周辺に浄土真宗の信者がいないため断念、次に南郷(広陵町)への移転が浮上し水田が多く屋敷を建てるのに向かないとしてこちらも断念している。1652年に現在地である萱野(広陵町)への移転が決定した。萱野にはすでに教行寺の末寺が位置していたことがその理由であった[6]

移転から約70年後の1724年に記録によれば、萱野とは別個に教行寺町という行政単位で扱われており、商人11軒、職人3軒など立派な寺内町を形成したことがわかっている[6]

その後、教行寺は荒れていったようで、現在の本堂は1842年に本願寺第二十世達如が教行寺の荒廃を見て再建させたものである[7]

現代

1998年の台風によって本堂に被害を受けている。2000年に外観の修理を完了した[8]

建築

本堂は幅が13間に達するほど巨大なもので[7]、浄土真宗の本堂としては奈良県で最大級の規模を誇る[9]

本堂の前方に外陣、正面と側面に吹放しの広縁を設けている。後方には内陣とその左右に余間が配置されている。柱はすべて円柱で構成され、来迎柱を除いて屋根裏まで上っている。また縦横に繋虹梁が用いられ強固な構造となっている。虹梁や欄間などには彫刻が施されている。総じて、江戸末期の浄土真宗の大型本堂として典型的な建物となっている[7]

文化財

阿弥陀如来立像

教行寺の本尊。広陵町内の浄土真宗寺院の本尊阿弥陀如来立像は、古くから伝わる仏像を補修、改作して本尊として再利用した例が見られる。教行寺の阿弥陀如来立像も頭部は鎌倉時代、体は江戸時代のものと推定されている[10]

その他

  • 本堂・書院(江戸時代末期)
  • 教行寺境内図(江戸時代)
  • 親鸞聖人坐像 - 江戸時代の作。一木造[11]
  • 証如上人画像 - 室町時代[11]
  • 親鸞聖人画像、蓮如上人画像、実如上人画像、教如上人画像、琢如上人画像 - 江戸時代[11]
  • 六道図 - 江戸時代[11]

周辺

脚注

参考文献

  • 『広陵町史 本文編』広陵町、2001年。 
  • 『田原本町史 本文編』田原本町、1986年。 
  • 『高槻の史跡 : 目でみる郷土の文化財 改訂新版』高槻市教育委員会社会教育課、1987年。 
  • 『広陵町の仏像 (広陵町文化財調査報告書)』広陵町教育委員会、1992年。 
  • 『奈良県の近世社寺建築 : 近世社寺建築緊急調査報告書』奈良県教育委員会文化財保存課、1987年。 

関連項目

外部リンク




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